四拾壱 水かけ女、登場
しばらく井戸の周囲をぶらぶらしていた赤虎が、そばにやってきた。
井戸の跡を顎でしゃくりながら言う。
「おい、大先生。あそこに何か出ることはないか」
「あそこって?」
大先生と呼ばれたことにむっとしたので、何と言い返そうか迷いながら、漫然とそう呟く。
「だから井戸だよ」
「井戸と言ったって、もうすっかり塞がれているじゃないですか」
「うん……。それは確かにそうなんだが。本当に何も出ないか?」
「知りませんよ、僕は」
おれはなおも腹を立てていたので、吐き捨てるように答えた。
然し、向こうでは全く意に介していないようである。
「俺がガキの時分は、あれはまだ現役で、屋根が付いていた。学校帰りに喉が渇いていた時は、勝手に釣瓶で水を汲み上げてガブガブ飲んだものさ」
「それで寅さん、出るって何がだい?」
ヤンマーが興味津々なように尋ねる。
「うーん、それがだなあ……」
寅さんがしぶしぶ話して聞かせてくれたのは、次のようなものだった。
もう十年も昔のことである。
ある日、寅さんは晩酌でつい飲みすぎてしまい、とうとう奥さんと喧嘩になってしまった。そのあげくに、家を飛び出す。
夏の宵のことで、あたりはまだ薄明るい。
「チクショウ、面白くねえなあ」
とブツブツ言いながら歩いていると、いつの間にかこのあばら家の近くに辿り着いていた。
どこからか得も言われぬようないい匂いが漂ってくる。誘われるままに歩いていくと、夜顔だろうか、生け垣に大きな白い花がたくさん咲いている。
何となく生け垣の隙間から覗いてみると、井戸のそばで女が片膝をついて、行水をしている。
女は寅さんに気づくと、
「見てるんじゃないよ」
と叫んだ。
それから着物をさっとまとい、釣瓶の縄に掴まると、そのまま井戸の中にスルスルと消えてしまった。底のほうから、ザブンという音が聞こえる。
「おいおい、それじゃあ水浸しじゃねえか。そんなことなら、最初っから井戸の外で水浴びすることなんてなかったんじゃねえかなあ」
寅さんがそう独り言ちた時だった。いきなり頭から、ザバッと水をぶっかけられた。
「見上げると、カカアがバケツを持って仁王立ちで立っているんだ。水だけでは飽き足りないのか、今度は罵声まで浴びせかけてきやがった。ろくな稼ぎもないくせに、毎日飲んだくれてんじゃないよ、ってな」
おれとヤンマーは一瞬顔を見合わせ、それから噴き出した。
寅さんは頭を掻きながら言った。
「いやあ、世の中にカアチャンほど怖いものはない。妖怪よりもよほど怖いや。
しかし、あれは一体、何だったんだろうなあ。やはり夢でも見ていたのか――」
「夢じゃありませんよ。それは水かけ女と言って、質の悪い妖怪の一つです」
清さんがいつの間にか座敷に立っていたので、三人ともぎょっとした。