四百拾四 あばら家、愛の執着駅よ
これはもう、与党を脅かすに足るだけの十分な勢力である。あとは新たな政党の結成に向けて、具体的な作業を進めるだけとなった。
ところが急転直下、事態は意外な展開を迎える。中野十一事務所が検察特捜部の家宅捜索を受け、秘書の矢部唯一が逮捕されたのである。
嫌疑は政治資金規正法違反で、派閥の『半餅会』あてに某食品メーカー2社から計5百万円の闇献金を受けていたにもかかわらず、一部しか収支報告書に記載していなかったというものであった。
青天の霹靂のような事件だったにもかかわらず、その日は朝からたくさんのテレビカメラが待ち構えていて、ダンボールが次々と運び出されるお決まりのシーンが華々しく報道される。
中野十一も任意で聴取を受けたが、逮捕には至らなかった。マスコミの取材には、自分は何も分からないし、まだ捜査中であることからそれ以上詳しいことは話せないと答えるのみだった。
ところが、事件はあっさりと終結する。秘書の矢部が、全て自分一人でやったと、罪状を認めたのである。
また、闇献金を支払った側が食品メーカーだったので、中野本人の国会議員としての職務権限に直接関わることではなかった。
しかし、ダメージは大きかった。某週刊誌には、「ヤーベも天から落ちる」と書かれたし、もっとひどいのになると、中野が妖怪というあだ名で呼ばれていたことに引っ掛けて、「あやかしあやうし」だの、「もののけおののく」だの書き立てる所もあった。
何れにしても、わずか5百万円のことでこのようなスキャンダルに見舞われたことは、政権交代を図ろうとしていた中野十一の出鼻を大きく挫くこととなったのである。
さて、次は果たしてどう出るのか世間が注目をしていると、彼は記者会見を開いた。それはまた、皆をあっと言わせるものであった。
彼はテレビカメラの前で深々と頭を下げて謝罪した。たとえ秘書が勝手にやったこととはいえ、自分にも責任がある。したがって、潔く国会議員を辞職すると。
「とっつぁん、いや秘書の矢部に、私は甘え過ぎていたんだ」
中野は重ねて言った。
「何しろ政治には金がかかるからね。ましてや、新しい政党を作ろうっていうんだから、なおさら大変だよ。だから彼には無理をさせてしまった。こんなことになってしまったのも、私の不徳の致すところだ。私には、やはり裏方のほうが合っているようだね。したがって国会議員は辞めても、政治家は続ける。
今後は、新党『虹』の党首、五階堂和善に全てを託すことにする。彼はまだ若いし、十分伸びしろがある。彼ならやってくれるだろう。これから私は、その彼をしっかりと支えていく。何としても政権交代を実現するために……、それも一回ポッキリでは駄目だ。永続的にそれを可能とするような、強くて健全な野党を結成するために、これから私は命を捧げる」
その後、慈民党と幸民党と民民党と憂民党と国民自立党と敬国律民党と新党『虹』と、それに政権交代を実現すべく野党を糾合して新たな政党を結成するための母体となる『国政改革推進同盟』がどうなったかは、知らない。
だが、国だの国家だの、おれにはどうだっていいことだ。政治家がそれを論じるときは、ともすれば入れ物のことを言っているだけで、その中で暮らしている肝心な人間のことが頭にあるのか、はなはだ疑問に思うことがあるから。
おれには、あのあばら家がある。誰に強制されなくとも、おれはあのあばら家を守るんだ。たとえひとりになっても──。
あの忌まわしい家に対して、おれはいつの間にかそういう気持ちを抱くようになっていた。
そうこうしているうちに、季節はいつの間にか夏を迎えていた。おれは相も変わらず、寅さんやタチュユキさんたちにさんざんこき使われたり、振り回されたりしていた。
それは、セミどもがみんなでミンミンと喧しく鳴く昼下がりのことであった。
たまには文化的な生活をしたいということもあったし、涼しい思いをしたいということもあったので、おれはこっそりと家を抜け出し、朝から図書館で過ごした。
だが、小説を書くのをやめて久しかったということもあり、人の書いた長い文章を読むのも半日でいやになってしまったおれは、帰って昼寝を決め込むことにしたのだった。
バスから降りたおれは、汗を拭きふき、帰宅の途についた。寅さんたちに見つからなければいいがなとビクビクしていたのだが、いざ着いてみると、果たして門の周りに人だかりができている。
何よりも驚いたことは、おれの家がまるでマンションの工事現場みたいに防音パネルで覆われていたことである。
呆然として見ていると、オイ……という声がした。オイさんではなく、タチュユキさんだった。奥さんの早苗さんもいる。
美登里さんもいたが、寅さんはいない。おそらく農協で仕事をしているのであろう。
米さんもいたが、ヤンマー、もとい誠はいない。おそらく、スズキの工場で自動車整備の仕事をしているのであらう。
それからもう一人、ふくよかな女性が……。そうだ、確かさやかさん。このほど村人A、もとい英ちゃんの奥さんになった人だ。さやかさんはおれに気づくとぽっと頬を赤らめ、おじぎをした。
英ちゃんはいない。おそらく畑にでも行ってるんだろう。何だ、村長さんが乗るようなボロのセドリックに乗って。
オイ……。
また声がした。
オイさんでもなく、タチュユキさんでもなかった。小さなお婆ちゃん。この暑いのに、半袖のシャツの上に紫色のチョッキ。茶色のモンペに草履姿。脚はガニ股で、杖をついている。登世さんだった。
「おい、のっそりひょん」
何だか懐かしいあだ名で呼ばれる。
「いよいよ、旺陽女様をお迎えする準備を初めたんじゃな。新築工事とはでかした、でかした」
「そうなのか?」
「そうなの?」
皆が一斉にこちらを振り向く。
「ぼ……、ぼくはしりましぇーん」
目を白黒させながら思わずそう答えると、今度は皆の冷たい視線に晒された。
何だ、この暑いというのに……。
おれは恥ずかしさで頬をかっかとさせながら 汗を拭いた。
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係がありません。




