四百拾弐 壊れた約束
するとここでチョウナンカイが、おもむろに中野の背中から弟のチョウヤッカイを引き剥がそうとした。チョウヤッカイは嫌だイヤだと言わんばかりに激しく頭を振る。そうして、ますます強く中野の首にしがみついた。
「ゲホッ、ゲホッ」
しがみつかれたほうは、顔を真っ赤にして咳き込んだ。チョウナンカイは、はっとして弟から手を離す。
「失礼」
中野はそう言うと、ガラス容器からコップに水分注ぎ、一口飲んだ。
「さて、最後の質問への答えだが……」
そう言いかけた時だった。パシャッ、パシャッとフラッシュがいくつも焚かれた。
「キャッ!」
チョウナンカイは思わず身をよじらせ、顔をそむけた。チョウヤッカイも、中野の背中に隠れるようにしている。
「野党をまとめるなんて、無駄ですよ」
記者席から声が飛んだ。すると、それに呼応するように、次々と声が上がる。
「そうですよ、また同じことの繰り返しに決まっている」
「悪夢の再来だな」
「どうせまた、目立ちたがり屋が次々と出てきて、空中分解してしまうのが目に見えている」
「国民はそっちのけで、やってる感を見せびらかしたいだけなんだから」
「そんな茶番は、もう二度とゴメンですよ」
「まとまるわけがない」
「まとめてみせるさ」
中野は、会場か静まるのを忍耐強く待つと、そう言った。
「新しい政党は、国民の安寧と幸福を追求することを党是とする。これ一つさえ見失わなければ、たとえ100通りの意見があったとしても、答えは自ずと一つに収斂していくのではないかね。肝心なことは、いかにその答えを、人々が納得できるように適切に導き出すかというプロセスにある。
そのために、新しい政党においては、立憲主義と民主主義を堅持する。かつ、国民主権、平和主義、そして基本的人権の尊重を原則とした憲法を遵守する。ただし、憲法を遵守するということは、憲法を何が何でも改正しては不可いということではない。遵守していくためにも、改正が必要な場合だってあるはずなんだ。君たちは、そんなことは当たり前だと思うかもしれない。だが、これまでその当たり前のことができていただろうか? その答えは、あえてもう言うまい。
ただ、一点だけ付け加えておきたい。新しい政党においては、国連改革を強く主張していきたい。いくら憲法を改正して有事に備えておくとしても、肝心な国際情勢のほうが不安定なままでは、非常に心許ないからね。特に、国連の常任理事国である五大国のうち、三大国の振舞いは目に余る。世界の平和と発展のために率先して尽くしていくべきこれらの国が、自国の利益のみに専念して行動するから、他の国々までがそれに追随して核開発を行ったり、乱舞狼藉を働いたりする始末だ。こうなったらもう、不安定どころかアナーキーとさえ言ったほうがいいだろう。
前の大戦で世界は大変な惨禍に見舞われてしまった。もう二度とあのような惨禍を引き起こしてはならない。日本だけではなく、世界中がそう誓って国際連合を作ったのではなかったか。それが今では、このような体たらくだからね。
約束したことが、みんな反故になっちまった。世界は、破壊と混沌と再生を繰り返すしかないのだろうか? こうなったら、とことん行くところまでいっちまうしかないのか? 第三次世界大戦を起こすばかりか、核を用いてまで互いに破壊の限りを尽くそうというのか? それこそ破滅寸前にまで行っちまわないと、その愚かさに気が付かないのか? いや、そんなことはないはずだ。人間は絶対にこの危機を乗り越えられるはずだ。そのためにこそ、今のうちに国連改革を行うことが必要なんだ。
これでも私は若い頃にね、宗教書や哲学書、或いは文学作品を片っ端から読みあさったことがあったんだ。こんな私からは想像もできないだろうが、詩なども暗誦したりしたものだ。そのうち、三好達治のものは、今でも心に残っている。少し披露させてもらおうかな?
いいかい? こうだからね……。
『約束はみんな壊れたね。海にはキノコ雲が、ね、雲には灰色の地球が、映つているね。空には地獄への階段があるね。今日偽りの旗が落ちて、大きな天の川のように、私は人類と訣れよう。地球に人類の足跡が、足跡に微かな核のゴミが……、ああ哀れな人類よ』(※)
いやあ、当時は意味が分からなかったが、詩人の鋭い感性が、今の時代を予見していたんだろうか。ははは、嘘だよ、ウソ。だいぶもじってある。三好達治のファンからはおしかりを受けるかもしれないね。いやあ、堪忍、かんにん」
中野十一はそう言うと、満足そうに笑った。
※ Enfance finie
海の遠くに島が……、雨に椿の花が堕ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
約束はみんな壊れたね。
海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。
空には階段があるね。
今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣れよう。床に私の足跡が、足跡に微かな塵が……、ああ哀れな私よ。
僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係がありません。




