四百九 猿の惑星
すると、チョーヤッカイが何を思ったのか、中野が座っている椅子によじ登り、背後から中野の首にすがりついた。耳元に顔を近づけ、大きくゆっくりと口を動かす。
ヒ・ト・ゴ・ロ・シ……。
(ユーチューブで記者会見の模様を見ていたおれには、確かにそう言っているように聞こえた)
中野は一瞬身体をビクッとさせて、後ろを振り返ったが、何も見えないのか、不思議そうな顔で前に向き直った。
「先生、どうかなさいましたか?」
司会者が尋ねる。
すると、その司会者の後ろのほうでドアが開き、女の子が顔を覗かせた。ポニーテールに水色の振袖姿。裾丈は膝までしかない。チョウナンカイだ! 会場内をキョロキョロ見回している。弟のチョウヤッカイを探しているのであろう。
「人殺しか……。あ、いや……、なんでもない」
中野は慌てて言った。
「いや、申し訳ない。つい、変な言葉が口をついて出てしまった。うん、そうなんだ……。政治の責任は重い。その決定次第で、多くの人の命が奪われてしまうからな。それでつい心の奥底から、時々そういう言葉が湧き上がってくる。正直怖いし、政治家として情けない。恥ずかしい限りだ。
しかし、こと9条に関しては、たとえ優柔不断とそしりを受けても、慎重ならざるを得ない。いくら専門家の意見を聴いても、或いは議論を尽くしたとしても、果たして正解というものが導き出せるのだろうか? 神様は答えを知っているのだろうか? 考えれば考えるほど、ますますそういう疑問が湧いてくるんだ。そもそも正解なんてものは最初からなくて、すべては結果論にすぎないのだ。その結果に対して、政治家というものは潔く責任を負うしかないのだ、とも思ったりする。本当に悩ましい、厄介で難解な問題だよ。いや、本当に重いなあ」
すると、チョウヤッカイがまたもや耳元で囁く。
オモイカイ?
イマニモットオモクナルヨ……。
中野十一はとうとう額に手を当てて、一瞬黙り込んだ。
司会者が心配そうに尋ねる。
「先生、お疲れになったのでは? 少し休憩をとられますか」
やはり、中野以外の誰にもチョウヤッカイの声は聞こえていないようである。
「大丈夫だ。たかがこれしきのことで疲れたなんて言っちゃあおれないよ。本当の戦いはこれからなんだから。
さっきは、タナトスなんていう自分でもよく理解できていない言葉を口走ってしまったが、人間なんて本当に不完全な生き物だよ。
自分はどうしようもない不良少年だったが、ある人のお陰で更生できた。その後は必死で仕事をするかたわら、狂ったように本も読んだ。その中の一つに、聖書がある。なにしろ、人間を正しく導くためのものだから、あの厚い本にさぞや素晴らしいことが書かれているのだろうと、興味を持ったんだ。
ところが実際に読んでみると、びっくり仰天だ。王を始め、人間たちがただの過ちどころか、大変な罪を冒してしまうんだからな。ダビデなんて奴は人の女房に懸想して、それだけならまだしも、彼女を手に入れるためにその夫を遠い戦地に送ってしまったんだから。人間どころか、ギリシャや日本の神々までもが、大変な乱暴狼藉を働いてばかりじゃないか。神々でさえそうなら、人間たちだってしれたものだ。しかし、その頃の人間に比べて、現在の我々はそんなに進歩しただろうか? 確かに科学や文明は飛躍的に進歩したかもしれない。だが、人間性そのものは?
アーサー・ケストラーと言う人が『ホロン革命』という本を書いていてね、その中にこんなことが書かれてあった。人間の脳というのは旧皮質と新皮質に分かれていて、新皮質の部分が爆発的に進化したのはいいが、ついに『E=mc²』という悪魔の数式を発見してしまった。そしてそれを元に、原爆という忌まわしい発明品を生み出したばかりか、実際に投下してしまった。これは人類史上、大変な出来事だから、彼はその年の1945年をもって『pc』に代わる『ph』という新しい紀元を提唱しているんだ。つまり、ポスト・ヒロシマだよ。さらに彼の慧眼は、新皮質に比して、本能や情動を司る旧皮質の部分は全く進化していないばかりか、バランスが取れていないことを見抜いている。そのうえで、我々に警鐘を鳴らしているんだ。つまり、馬が原爆を手にしていることと同じだことと。
今日、まさかこんな話になるとは思っていなかったから、準備まではしていなかった。だから、いささか不正確かもしれないが、まあそんな内容だったと記憶している。
これは私が勝手に思っていることだが、馬をチンパンジーと言い換えてもいいだろう。地球はすでに『猿の惑星』と化してしまったのではないだろうかと……」
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体等とは一切関係がありません。




