四拾 落目欽之助、五態の変化
「それなら、もういい。あの時、お前はすぐに謝ったはずだ。むしろ謝るべきは、おれのほうだ。農業のことなんか何も知らずに、あんなことを言って悪かったと思っている。このとおり、改めて謝る。済まない」
「そうか、良かった。これで奇麗さっぱり仲直りといこう」
「そんなことよりも」
と、おれはぎろりと睨んだ。
「先生とは何だ、先生とは。余り馬鹿にするんじゃない」
ヤンマーは悪びれる様子もなく言った。
「だって、清さんがそう言ってたぜ。近所中にそう言いふらしている。あんた、偉い先生なんだってな。今に芥川賞も取れるような人なんだって? そんな人を相手に悪いことをしてしまったなと、俺は本当に反省しているんだ」
「……」
おれは開いた口が塞がらなかった。
ヤンマーは、そんなこちらの様子には全く気付かぬごとくに続ける。
「それより先生、あのお婆さんは何者なんだい? あんたの親戚なのか? まだ来たばっかりだというのに、もうすっかり近所中の人気者になっている。それにこの里のことを本当に良く知っているんだ。百年も前のことだって」
「百年前のことだって?」
おれはすぐにUボートの一件を思い出したが、そのことはあえて口には出さなかった。
「ああ、そうなんだ。清さんって、昔ここに住んでいたことがあるんじゃないのかなあ。でも、それを聞くと知らんぷりするんだ。ここの古老で百歳を過ぎた人も居るには居るんだが、そんな百年前のことどころか、自分のことさえいまでは忘れちまっているからなあ」
そんなことを話しているうちに、赤虎こと寅さんが庭をうろうろしていることに、おれは気づいた。
庭に井戸の跡があるのを、すっかり書き忘れていた。
井戸の跡と言っても、埋め立てた後に防火用水として使用されていたのだろう。コンクリートの丸い壁にそう書かれていた跡がある。
今は子供の安全のためであろう。それもやめて、同じくコンクリートの蓋でしっかり覆っている。
赤虎は、その周囲をさっきからうろうろしているのである。
「赤虎は最先から何をしているんだろう」
おれがそう言うと、
「赤虎だって?」
とヤンマーが振り返る。
「ああ、寅さんのことか」
と、頷く。
「しかし、よく知っていたな。あの人も自分で自分のことをそう呼んでる。男、赤虎ってな。俺は寅さんと呼んでいるがな」
「まあ、いいや。ところで、おれのことを先生と呼ぶのはやめてくれないかな」
「だって、清さんが先生、先生と言ってるから、今ではこの近所の人はみんな、お前のことを先生だって思っているぜ」
おれは顔を真っ赤にして言った。
「清さんがそういうのは仕方がない。何とでも呼んでくださいと、もう言っちゃったから。しかし、お前からそう呼ばれるのはいやだ」
「じゃあ、なんと呼べばいい」
「欽之助という立派な名前があるから、そう呼んでくれ」
「わかった、錦之助。それじゃあ、俺のことは――」
「ヤンマーだ」
「何だって?」
「お前のことは、おれはもうヤンマーと呼ぶことに決めている。どうだ、いいあだ名だろう」
「何だって? ふん、まあ勝手にするがいいや」
こうしておれは、本来の欽之助にようやく戻れたのだった。
伊勢木寅太は、赤虎に寅さん。山田誠のほうは、青虎だったり、ヤンマーだったり。
しかし、おれに比べれば大したことはない。
この落目欽之助は、オッチャンにからボッチャンになったかと思えば、失恋の末に落ち目となり、次に坊ちゃんから先生となり、やっと本来の欽之助に戻れたのだから。