四百参 チョーヤッカイ、乱入す
ここまで話したところで、中野は一度、会場をぐるりと見回した。もう私語をしたり、野次を飛ばしたりする者がいないことを確かめたように軽く頷くと、再び口を開く。
「戦後間もない頃に、太宰治はひとり願った。小さくても美しい、平和な独立国になれるようにとね。ところが、今やこの国はどうなったろう。ただもう一直線に目指しているのは、「美しい対米追随新自由主義国家」とでも言ったらいいのだろうか?
待てよ、「美しい」も余分だな。今にも死にそうになっている人たちを、政治家や財界人どもは放置している。そればかりか、怠け者呼ばわりまでして憚らない。働きたいと強く欲しているというのに、その機会さえ与えようとしないんだからな。そんな国が美しいなんて、断じて言えるものか。
ふむ……。一応は、生活困窮者が自立するための支援策を国は用意してある。しかし、使えないらしいんだ。例えば、母子家庭の母親が特定の資格や技術を取得するために指定の講座を受けたり、修学したりする場合には支援金が出る。だが、一人親家庭で子どもの面倒も見なければならないというのに、いつそんな暇があるんだ。その間の生活費はどうすればいいのだ。それでなくとも働き詰めのうえに、爪に火をともすような生活をしているというのに。
喩えて言えば、一流のレストランで料理のメニューはふんだんにあるとする。それも、トリュフ、キャビア、フォアグラなどの贅沢な食材を使ったやつだ。ところが、やたら横文字だけが並んだメニューは、その意味さえ分からないし、食べ方も分からない。とりあえずフォークで刺してちょっと口に入れてはみたものの、味もさっぱり分からなければ、腹も満たされないというわけだ。
だが、本当に腹の減った人間にとっては、そんなものよりも心のこもった手料理のほうが、どれだけ嬉しいことか。いや、たった一個のおにぎりだつていいんだ。
私の母は、長年の苦労で手のひらが厚く角質化して、いつもカサカサしていた。深いシワが刻み込まれていてね、シワの中には油が染み込んでいたり、土がこびりついたりして、いくら洗っても落ちないんだな。その汚い手で作ったおにぎり、たくあん、味噌汁……。飢えていた私には、それがどれだけ美味しかったことか。たったそれぐらいのものさえ、生活困窮者に提供してやれない今の日本が、美しい国などと言えるわけがない」
中野がそこまで話した時に、記者席の方から、「あなたの子供時代の体験は、もう結構です」という声がした。例の松尾憲治が、自席に座ったまま声をかけたようである。
司会者がすぐにまた注意した。
「君、失礼じゃないか。先生はまだお話をしている最中だったんだぞ。こちらの許可を得たうえで、ちゃんとマイクの前に進み出て言いなさい。それに、君にはもう、発言を控えていただくこととしよう」
「いや、構わない」
中野は言った。
「むしろ立ったり座ったりするのは、お互いに時間の無駄というものだ。マイクを渡してやりなさい。そうだな、ここのホテルの人に頼んで、もう四、五本、記者さんたちの机に分けて置いてもらったらいいだろう。ただし、ざっくばらんに発言してもらうのはいいが、一度に喋られても聞き分けられないからね。ここは一つ、司会者に従ってほしい。──さて、風聞春秋さん、何が言いたかったのかな?」
早速マイクが、松尾に手渡される。すると、その時だった。
「重いかい?」
マイクを通じて、子供のような声が会場に響き渡った。
中野十一は一瞬呆気に取られたように、松尾記者の座った先を見つめていたが、すぐに頬を緩めて言った。
「重いかいって、君の背中のファットマンのほうがよっぽど重いんじゃないのか?」
しかし、当の松尾のほうは、左右をキョロキョロ見回して言った。
「ぼ、僕は何も言ってませんよ」
見ると、彼のそばに小さな男の子が立っていた。ぼさぼさの髪は、てっぺんでちょこんと結ばれており、ぶかぶかの茶色の着物をしどけなく着ていた。ところが松尾はもちろん、会場の誰にもその姿は見えていないようである。
チョーヤッカイだった。妖怪はそれっきり松尾のそばを離れると、着物の裾を引き摺りながら、記者席の間を楽しそうに歩き回っている。
司会者が言った。
「松尾さんかどなたか分かりませんが、意味不明なことを言ってふざけないように。今度そういうことがあれば、退出していただきますからね。それでは松尾さん、続きがあるのならどうぞ」
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