四百壱 トロッコ問題?
松尾が再び手を挙げると、司会者が即座に言った。
「時間に限りがございますので、もうご遠慮願えないでしょうか。どなたか他社の方で、あっ君──」
松尾は、もうマイクの前に立っていた。司会者が目で合図をすると、屈強そうな男が1人近づいてきて、彼の肩に手をかけた。ボディガードを兼ねた中野の秘書であろうか、物腰はあくまでも丁寧ではあったが、有無を言わさぬ様子である。さすがのコーヒーボーイも、諦めたようにその場を立ち去りかけた。
すると中野が言った。
「いいんだ、彼の好きなようにさせたまえ。背中の物騒な化け物に暴れられると、大変なことになるぞ」
面白そうに笑っている。
「ということで……」
松尾は勝ち誇ったような顔で軽く男を押しのけると、メモを手にしながら言った。
「厚生労働省などの資料によると、非正規労働者は2016年度で2千万人、全雇用者の実に4割です。そのせいもあるんでしょうが、日本の相対的貧困率は、2015年度で15.7パーセント。何と15.7パーセントですよ。それからホームレスの人たちは、2016年度の調査では6千2百人だそうです。これは、市区町村の職員が日中、街なかのテントやダンボールの数を数えて出した推計値のようですが、ネットカフェに泊まり歩いている人や昼間働いている人もいるので、実際はまだ多いだろうとのことです。
えーと、それから……、2017年度の自殺者数は2万1千人。このうち経済や生活問題が原因で命を絶った方が3千4百人だそうです。そして、あなたも仰っていた餓死の件ですが、ある調査があります。これは、2010年から14年の間に各国の研究者が調べたらしいのですが、飢えを経験した人の割合が5.1パーセントだそうです。これは経済大国のニッポン、美しい国、ニッポンの話ですからね。そして、そして──実際に飢え死にした人の数ですが、2016年度で1千6百人を超えているそうです。これからも同じような調査をするでしょうけど、いやあ結果が出るのが楽しみだなあ。なにしろ、非正規労働者はどんどん増える一方ですからね。
しかし、これからが肝心です。一方ではこれよりもはるかに多くの命が、核攻撃の危険に今こうしている間にもさらされています。もし、あの国が東京に核攻撃をしてきたら、仮にミサイル防衛システムが働いたとしても、20万人から90万人の死者が出るとの試算がなされております。すぐにでも、アメリカと一緒になって集団的自衛権を行使できるように、憲法を改正すべきではないですか? ミサイル迎撃システムだってもっと拡充すべきだし、敵基地攻撃能力もつける必要がありますよ。
それなのに予算は限られていますからね。いや、限られているどころの話ではない。日本は世界の中でも債務残高が突出しています。これ以上、生活困窮者たちのために予算を割くなんて、そんな余裕はとてもありませんよ。今だって生活保護でかなりお金を使っているんですからね。ある財界人も言ってました。怠け者たちを助けることはないと。日本は社会主義国じゃないんだから、そんなことをしてたら国が滅びてしまうそうです。つまり自己責任、自助努力ですよ。
そこで改めてあなたにお聞きしたい。生活困窮を原因とする自殺者数が3千4百人。餓死者数の1千6百人と合わせて5千人です。あなたがこの人たちを救うことにかまけて、憲法の問題をいつまでも放置している間にミサイルがぶち込まれるかもしれない。そうすると20万人から90万人が死ぬんです。中間をとっても50万人だ。トロッコ問題じゃないですが、この5千人の命と50万人の命、あなたはどちらを優先しますか?」
「やめなさい!」
司会者が叫ぶように言った。
「そういう極端な、非現実的な、しかもふざけた質問に先生が答えなければならないいわれはない。今日は報道各社の皆様にはいっさい制限を設けずにおいでいただいておりますが、質問の内容については常識の範囲内でお願いします。──それでは、他の方の質問をお受けします」
この作品はフィクションであり、実在する人物、団体とはいっさい関係がありません。




