四百 おんぶお化け、ファットマン
中野は一度、ふーっとため息をつくと、これまでとは違って少し固い表情で語り始めた。
「かつて日本は、アジアの解放という美名のもとに、そのアジアを侵略してしまった。これは決して自虐史観なんぞではなく、歴史的な事実だと思うんだがね。この痛烈な反省のもとに、日本はもうニ度と侵略戦争は行わないと世界に誓ったんだ。このことこそが近隣諸国との無用な軋轢を避け、戦争の抑止にもつながるはずだと私は今でも思っている。
しかし、現実はそんな生優しいものではないようだ。繰り返しになるが、日本国憲法の前文にあるような理想的な姿で国際社会は動いていない。日本全土を射程に収めたミサイルを開発し、実際にそれを日本海にどんどんぶち込んでくる国もあるしね。だから9条はともかくも、いざ攻撃された場合は、正当防衛として反撃する権利ぐらいは、我が国にだってあるはずなんだ。だから、一方的にやられっ放しにはならない。やられたら、徹底的にやり返してやる。倍返しだ。そういう構えを見せておくのも、一応は抑止力にはなるんだろうね。ところが、向こうはそれにも増して十倍返しでくるかもしれない。それならと、こっちもさらにやり返す。際限がない。行き着く先は、核兵器だ。
アメリカの核の傘に守られているから大丈夫だって? 分かったものではない。自分の国もやり返される可能性が十分にあるんだから、いざとなったら二の足を踏むかもしれないじゃないか。それなら仕方がない、日本も核武装しようと言い出す者も自然と出てくる。日本だけではなく、どこの国だって同じだ。先に核を持った国が、あとから持とうとする国を、その核の力で抑えようとするなんて理不尽じゃないか。君の言うように、世界中が狂っている。いっそのこと、人類なんてみんな滅んでしまえばいいいんだとヤケになりそうになる。
9条をどうするかというのは、それだけ厄介で難しい問題なんだ。単純に答えを出すというわけにはいかない。だからこそ、今すぐにこのことで政党として縛りをかけるわけにはいかないんだ。とりあえずはどんな考えの持ち主でも受け入れ、皆でじっくり議論する。もちろん、学者や一般国民の意見にも十分に耳を傾けながらね。そして最後は、しっかりとした結論を出さなければならない。
しかし、それが正解とは限らない。むしろ正解なんてないのかもしれない。全ては結果なんだ。だから政治家は、毅然としてその結果責任を負うしかない。私は馬鹿な人間だが、その覚悟だけはできている。ところで──」
ここまで話すと、彼はまた表情を緩めた。以前の人を喰ったような不敵な笑みを浮かべている。
「今まで気がつかなくて申し訳ないが、君はあの時のコーヒーボーイ君ではないか。確か『週刊風聞春秋』の松尾憲治君じゃなかったっけ?
ふふふ……。いつまでも川辺一谷のもとで、政治家のカネや下半身のスキャンダルばかり追い回していてもつまらんぞ。私は今度の選挙で、女性やLGBTQ+と呼ばれる人たち、或いはプレカリアートと呼ばれる人たちを積極的に擁立するつもりだ。もちろん大層なお金がかかるだろうがね。君は何か悩んでいるようだが、そういうひたむきな若者も大歓迎だ。君、出身はどこだい? 選挙区はどこになるんだろう?」
松尾は、すぐにまたマイクの前に立つと、苛立たしそうに言った。
「名前を覚えておいていただいて光栄です。しかし、選挙の件は丁重にお断りします。僕の出身がどこだろうと関係ないじゃないですか。まあ、確かに重いものを背負ってはいますがね。お化けなんですよ、真っ黒い太ったお化けなんです。ものごころついた時から、背中に取り憑いて離れないんです。僕はこいつをファットマンと呼んでますが……。まあ、そんなことはどうでもいいや。それに質問するのは僕のほうだ。いつまでも議論するのは勝手だが、世界は待ってくれませんよ、あちら側もこちら側の陣営もね──。グズグズしていたら、すぐにでも尖閣を取られるかもしれない。核を搭載したミサイルだって、本当に打ち込まれるかもしれませんよ。それに現政権ですでに決めた事はどうするんですか? もし、あなた方が政権を取って、違うことを決めたら?」
「なるほど、生れ出づる悩みというわけか……。やれやれ、今日は記者会見というよりも、討論会みたいになってしまったな」
中野が司会者を振り返りながらそう言ったので、向こうは恐縮してもじもじしている。
「いいんだ、いいんだ。これこそ私の望んでいたことなんだから」
鷹揚にそう言うと、再び続ける。
「こんな時には、仮定の話には答えられないと言うのが政治家の常套句なんだが、逃げ口上になるからあえて答えよう。いくら政権を取ったからと言ったって、一度国際的に約束したことなんだから、それをいきなりひっくり返すわけにはいかないだろうね。その時は、時間をかけて理解を求めていくほかあるまい。誠実に粘り強くね。
しかし、それよりももっと急ぐべきことがあるのじゃないのか? 確かに、9条の問題も差し迫っているかもしれない。命の問題だからね。しかし、我々がこんなくだらんやりとりをしている、今この最中にも死んでいく人たちがいるのではないのか? 健康で文化的な最低限度の生活どころか、食うや食わずで、命の危険にさらされている人たちがいるのではないのか? この経済大国の日本で餓死したり、生活困難の末に自ら命を断ったりする人たちがいるのではないのか? この人たちのことをほっといて、何が憲法改正だ。何が集団的自衛権だ」
この小説はフィクションであり、実在する人物、団体とはいっさい関係がありません。




