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参百九拾七 チンパンジーの定理

「以上だ」

 中野が話を締めくくるようにそう言うと、会場は一瞬、呆気にとられたように静まった。


 ややあって失笑のような声が洩れる。それをきっかけにざわめきが起き、だんだんと渦を巻くように大きくなっていった。


 とうとう怒号まで上がる。

「何だよ、それ?」 

「我々を馬鹿にしているのか?」

「人を食うのもいいかげんにしろ!」


 司会者が大声で、ご静粛に願いますと叫んだが、なかなか収まるものではない。

 

 中野は腕組みをしたまま目を閉じていたが、やがて会場が少し静かになると、再びマイクを取って言った。

「私は妖怪なんでね、人ぐらい食うさ」

 皆を見回しながら、ニヤニヤしている。


 すると堪りかねたように、一人の記者が司会者の許可も得ずに発言した。

『トリクルダウンの逆をいくですって? 初めからできもしないことが分かっているくせに、大衆におもねるようなことを言っているように見えますがね。そんなのは単なるポピュリズムですよ。一部の人々のルサンチマンをいたずらに刺激し、国民を分断に導くだけじゃないですか。

 規制改革や構造改革に否定的なようですが、たとえそのことで、あなたのおっしゃるような弊害が生まれようとも、やはりそれはそれで続けていく必要があるのでは?

 つまり、ティ……、えーとティ……亅


 記者はそこで空咳をすると、何とか思い出すことができたのか、再び続けた。

「つまり、ティンバーゲンの定理とかマンデルの定理とかがあるじゃないですか。弊害については、また別の政策を講じてやればいいわけで……』


 自分自身よく理解もできていないことを持ち出したものだから、最後はむにゃむにゃと口ごもってしまったようだ。


「やれやれ、やたら横文字を並べ立てたもんだ亅

 中野は肩をすくめて言った。

「チンパンジーの定理? 何だい、それは? あいにく私は中卒なものでね、そんなものは知らない。しかし、人間がいくら進化したと言っても、未だにシッポが取れただけのチンパンジーに過ぎない。欲望を制御できない点においては、たいして猿と変わらないさ。いや、同じ種同士で争い、殺戮し合うことにおいては猿以下じゃないのかな?


 ところで構造改革などの必要性を、私は否定しているわけじゃない。さっきも言ったはずだがね。

 企業や個人がその持てる力を最大限に、かつ健全な仕方で──、ここが肝心だよ、あくまでも健全にだ。企業や個人が健全にその力を発揮することによって、世の中に価値あるものを提供し、国民はそれを享受することで豊かになり、かつ幸せを感じられるようになること。そのために必要な制度を整え、逆に障害となるような制度を改めること。これが政治の重要な役割であるとね。

 もう一つ、何だったっけ? ルサンチマンと言ったかな、そりゃ何だい? サンタルチアなら聞いたことはあるんだが亅


 先程の記者が答えた。

「人々のひがみ、妬み、怨みの感情です。三み一体の情動みたいなものですよ。特に、弱者の強者に対する屈折した感情です。あなたはそれを焚きつけようとしているんです。そして、政治利用しようとしている。自らの勢力を増やすためにね。

 しかし、あなたのおっしゃるように誰も彼も満足できるようなことをやるなんて、どだい無理なんですよ。パイは限られているんですから。才能もなければ、努力もしない人間に等しく幸福を与えるなんて、逆に不公平じゃないですか。あなたは単なる理想主義者なんだ。いや、空想的社会主義者と言っていい」


「おやおや亅

 中野は、驚いて目を回すような素振りをしてみせた。

「君はさっき、ひとつの政策が一定の効能と副作用をもたらすなら、その政策に効能があることは認めたうえで、副作用に対してはまた別の政策を講じれば良いというような意味のことを言わなかったかね? 私はその副作用のほうが甚だしいし、治療も全くできていないということを問題視しているんだ。

 それに努力もしないなんて、その機会さえ奪われている人はどうなるんだろう?


 私はガキの時分に親が貧しくてね、喉から手が出るほど食い物に飢えていた。そのことを、私は今でも怨んでいる。親ではなく、時代や社会をね。そういう意味では、わたしもそのルサンチマンとやらに当たるんだろうな。貧乏のせいで、中学までしか行けなかったんだから。もっとも勉強が嫌いだったこともあるが、フフフ……。

 だが、私にはチャンスが与えられた。私みたいなろくでなしを拾ってくれた人がいたんだ。私はその恩に報いるために、ひたすら頑張った。大事なことは、その頑張るチャンスさえ閉ざされた人たちがいることだ。 

 いいかい? 若い女性が住む家もなくて、野宿しているんだ。公園の水道で体を洗ったりしているんだぞ。或いはこの飽食の時代に、母親が幼子と一緒に餓死したりしているんだぞ。政治がそういうことを放置していていいのか? それとも、今の日本は放置国家なのか?

 私が空想的社会主義者だって言うんなら、今の政府の人間、或いはその周りの連中は、空想的新自由主義者とでも言えばいいのかな?」

この作品はフィクションであり、実在する人物、団体とはいっさい関係がありません。

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