参百八拾六 絶頂の末に
「傷ができても、通常はかさぶたで塞がる。でも人間ってバカだから、ついこれを剥がしちゃうんだよね。そしてまた血を流す。これを永遠に繰り返すんだ」
「うん、うん」
傘骨女は大きく頷く。
「問題は心の傷なんだ。心の傷にもかさぶたはできる。通常はそのお蔭で、心の傷も自然に癒える。ところが、どうしてもそのかさぶた自体が気になってしまう。いや、気になると言うより、気に入らないと思う人間が居るんだ。そしてよせばいいのに、バリバリと剥いでしまう。要するに、邪険に扱ってしまうんだな」
モンジ老さんはそう言うと、得意そうに貧相な顎鬚を撫でている。
「邪険にですって……? 続けて」
女の顔が少し青白くなっている。
得意の絶頂に達している老人は、そのことに気付かない。
「それで傷をもっと深くしてしまう。かさぶたがまたできる。また剥がす。これを繰り返しているうちに、人間は無間地獄に陥ってしまうんだ」
「それで、商売のほうはどうなったんだい?」
女は笑みを浮かべてはいるが、両目は怪しく輝き、長い髪の毛が少し乱れて顔にかかっている。
しかし、老人は一向に気付かない様子。
「それで考えたんだ。人間は、心の傷をいつまでも忘れることができないのが不可いんだと。それならば、かさぶたの存在にせめて気付かぬ振りをすることができればいいのにと。中にはそういう人間も居るじゃないか」
「誰だい、そいつは?」
女の口調が変わったことに初めて気づいたのか、老人はちらっと相手を見た。少し、ポカンとした顔で答える。
「ほ、ほら、厚顔無恥な奴。面の皮が厚い奴……。せ、政治家がその典型だ」
「ほお、それから?」
傘骨女が畳み掛ける。
「さあさ、それそれ」
「それでどうなる」
最初から一部始終を見ていたのか、水かけ女と狸婦人がここで囃し立てる。
「う、うむ……」
さすがの老人も、事態が穏やかならぬ方向に向かっていることにやっと気付いたようだ。すこし素面になったのか、口調がいきなり元に戻った。
「わ、わしはそこで気付いたんじゃ。こいつは金になると。つ、つまり、会話をすることで、心の傷を修復するか、或いは忘れさせたりするロボットなんじゃ。それを開発するために、忘れん坊と提携して新しい会社を立ち上げた。これがまた大ヒットした。それこそ飛ぶように売れたんじゃよ」
「さあさ、それそれ」
「それでどうなる」
水かけ女と狸婦人が、ここでまた囃し立てる。どういう訳だか、傘骨女は黙っている。
「勢いに乗って、大きな会社とも取引をした。世界に名を知られた有名企業じゃ。ところが、その内実はブラック企業で、病んでいる社員がたくさんいた。その会社は、過労死されたり、自殺されたりするより余程いいと言うんで、うちと専属契約を結んだんだ。こいつはまた儲かると思って、うちも更に銀行からお金を借りて生産を拡大し、社員も大幅に増やした。ところがじゃよ――」
「さあさ、それそれ」
「それでどうなる」
「ところが、仮想通貨で決済を行うようにしていたのが、大きな過ちだった。ある日突然、それは木の葉のごとく消えてしまった。あげくに大きな負債を抱えて、わしらの会社は倒産してしまったんじゃ」
「あらまあ、可哀想に」
水かけ女と狸婦人が同時に言ったが、同情しているようには全く見えない。
「そうかい、あんたのせいだったんだね?」
傘骨女が呟くように言った。
「えっ、わしのせいって?」
モンジ老さんは、おずおずとしたように聞き返す。
「私は、傷ついた人の心を癒やしてあげるのが一番の楽しみだったんだ。おのれ、貴様のせいだったのか。最近、私の出番がなくなったと思ったら――」
傘骨女の目はらんらんと輝き、長い髪がうねうねと逆立っている。いきなり口が耳元まで裂けたかと思いきや、モンジ老さんに襲い掛かった。
「ヒャー!」
老人は悲鳴を上げて、その場から逃げた。女は追いかける。二人(?)で座敷中を走り回る。
「さあさ、それそれ」
「それでどうなる」
他の女妖怪たちは、面白がって囃し立てる。
とうとう老人は捕まって、亀のように首も手足も叺の中に引っ込めてしまった。
「チクショー、殺してやる。よくもこの私を邪険に扱ったわね」
女はそれを容赦なく打ち据える。それこそ、袋叩きだ。
おれは慌てて赤紫に向かって言った。
「おい。これって、不殺生戒を犯しているのでは?」
「あ、忘れてた」
よんかいせいは事も無げに言った。
「四戒も五戒も、妖怪には適用されないんだった」




