参百七拾七 アカオトシ、再登場
「やれやれ、とんだ邪魔が入ったものだ。すっかり身体が冷え切っちまったろう? 最初っからやり直すとするかね」
と水かけ女が言った。
「えっ、初めからですか?」
おれは震えながら尋ねる。
「そうだよ。私の水垢離は三回続けてでやらないと効果がないんでね」
そう答えたと思ったら、有無を言わさず一回目のドバーっが来た。ぶっ続けでドバッ、ドバー。
「よし、これで半分終わった」
と呟いている。
おれは驚いて立ち上がった。
「まだ半分残っているんですか」
「そうだよ。水垢離と垢落としはセットになってるんでね。さあ、早くお行き。風呂場で、うちの馬鹿亭主が待っているから」
「はあ……」
釈然としないまま、玄関のほうに足を向けると、「あっ、ちょいとお待ち」と声を掛けられる。立ち止まったら、首に引っかかったままのセーターをTシャツごとすぽんと脱がされた。
「これは私が洗って乾かしといてあげよう」
「あ、ありがとうございます。そうだ、さっきのお礼を言うのも忘れてました。本当にありがとうございました」
おれは上半身裸のまま、腰を90度に曲げた。
「ふん」
女は厳しい顔でおれを一瞥すると、さっと釣瓶の縄に掴まり、そのまま井戸の中にスルスルと消えてしまった。底のほうから、ザブンという音が聞こえる。寅さんから聞いていたとおりだった。
だが、おれの上着はどうなるんだろう。井戸水なんかでセーターを洗って大丈夫なんだろうか……。まあ、いいや。
例のごとく井戸は消え、「防火用水」と赤い文字で書かれた、ただの円筒形のコンクリートと化していた。
おれはすぐに踝を返し、玄関へと向かった。洗面室に入ると、長髪の偉丈夫が腕組みをして立っている。褌をして、小袖を肩から羽織っただけの半裸姿だ。浴槽からは温かそうな湯気が上がっている。
「お待ちしてやしたよ」
アカオトシは太い眉毛を上げ、にやりと笑った。
「さあ、全部脱いで風呂にお入りなせえ」
「はあ……」
おれは、もじもじしながら心許ない声を漏らした。実はさっきから、彼のふんどしの隙間から大きな一物が覗いているのが、気になって仕方がなかったのだった。
「何ですね、さっきから」
アカオトシは笑った。
「男同士、何の遠慮も要りませんよ。さあ、早くすぱっと脱いじまって――」
「はあ……」
おれは、相変わらずもじもじしながらズボンとパンツを脱ぐと、タオルで前を隠しながら浴室に足を踏み入れた。
見ると、いつのまにか木製の椅子と桶が出現している。どちらも檜製のようで、いい匂いがする。
「こいつはあっしの特製でしてね。さあ早くお座んなさい」
とアカオトシが言った。
「はあ。それでは大変申し訳ないですが、遠慮なく」
おれは彼に一礼して、椅子に座った。バスガールの父親だから、どうしてもペコペコしてしまう。股の間はタオルで入念に蔽った。
「そこは御自分で洗っておくんなさいよ。あっしが流してさし上げるのは、あくまでも背中だけですからね」
アカオトシがまた笑いながら言った。
風呂桶でまず浴槽のお湯を汲むと、おれの背中をゴシゴシやりながら言う。
「こいつもあっしの特製でさあ。この糸瓜タワシで洗ったら、どんな垢でも落ちてしまうという優れものですぜ」
そう言われて、このおれにも、いつのまにか垢がたっぷり溜まっていたんだな、と思ったのだった。
すると、「それは違いますぜ」と、即座に言われた。また念が漏れたらしい。
「この前も言ったとおり、あなたにはあっしが落としてやるだけの垢もなければ、虚仮もない」
「えっ、それなら何故?」
振り向いて尋ねた。
「あの時も、なかなかのお人が居ましたね」
アカオトシは、おれの問いとは関係のないようなことを言った。
「もしかしてキンケツ、いや金本結貴のことですか? アイツはあなたに感謝してました。でもアイツは、水かけ女、いえゴメンなさい。あなたの奥さんから水垢離をしてもらってはいません。それなのに何故アイツは、あんなに吹っ切ることができたんでしょうか」




