参百七拾六 あやかし続々
「こんな日に正気の沙汰じゃない」
と傘骨女は言った。
「肺炎になったらどうする。それに私は雨女じゃないし、雨の日に出るとは限らない。雨だろうが雪だろうが、それに失恋の末だろうが、とにかく冷え切った人間を助けたくなるのが私の性分でね」
「勝手におし」
と水かけ女は言った。
「だが、肺炎なんかにゃなりゃしないよ。だから邪魔をしないでおくれ。私の水垢離は三杯目にやっと効いてくるんだからね」
爺ちゃんが言っていた。傘骨女が出たら、決して邪険に扱ってはいけないと。それでおれは、丁寧に頭を下げて言った。
「折角のお心遣い痛み入ります。しかし、今日の私は水垢離だろうが滝行だろうがやってみたい気分なのです。どうぞこのまま続けさせていただけますか? でも御親切、決して忘れません。あなたもどうかお元気で」
すると女は、くるりと背中を向け、片手を上げてバイバイをした。手は骨だけに変わっている。ボロボロの破れ傘を差し、歩きながら唄い出す。
雨に心も洗われる
雪で心も温まる
氷で心も解かされる
そのまましばし、お待ちやれ
お月様が、雲間から
お久し振りと出るわいな
ああ、こりゃこりゃ……
唄いながら、だんだん消えていくかと思ったら、人の家の玄関の中に勝手に消えていった。
「何が、ああ、こりゃこりゃだ」
水かけ女が憎々し気に言う。
すると、
「お前さんもお節介だねえ」
という声が聞こえた。
横を向いているうえに手ぬぐいをかぶっているので、顔はよく見えない。しかしよく見ると、三本の髭が見える。それに尻のほうからは尻尾が覗いている。
狸夫人だ。「理夫人」だとも呼ばれていて、理詰めで人間に議論を吹っかけてくるが、何気なく相手にするとひどい目に遭うらしい。
「何だって?」
水かけ女が声を尖らす。
「だって、そうじゃないか」
と狸婦人。
「そんな人間に親切にしてやったって、何の得にもならないさ」
「ふん、あんたこそ余計なお世話ってもんだよ。とっとと行っちまいな」
「そうはいくかい。いったい何だってんだよ。忖度か何だか知らないが、わたしゃねえ、あんたのそんな姿を見るのが情けないんだよ。いいかい? 私たちの仕事はね、人間を化かしたり、悪戯を仕掛けたり、時にはひどい目に遭わせたりすることなんだよ。それが妖怪の本分ってものさ。それを何だい。妖怪が人間に忖度するなんて、こんな理不尽なことがあるものかい」
「だから、それが余計なお世話ってもんさ。あんたは裸にでもなって、どっかその辺でポンポコリンと腹鼓を打ってりゃいいんだよ」
「ふん、わたしゃねえ、今日はまだ何も食べちゃあいないんだ。これからご相伴にあずかるんだからね。どうして今のうちから腹鼓なんか打てるものかね」
さすがの理夫人である。
「それに」
と理夫人は食い下がる。
「お節介の節介とはね、もともと節操を固く守って、世俗に流されないことを言うんだ。それを何だね、まるで人間みたいに忖度なんかしやがって。そんな人間は井戸の中にでも放り込んじまいな」
「忖度なんかしちゃあいないさ」
水かけ女も負けてはいない。
「私はね、この人には恩義があるんだ。恩には恩で返す。それが節操っていうもんさ。あんたこそ何だい、さっきから忖度、忖度と馬鹿の一つ覚えみたいに。いくら流行語だからって、そんな俗世に流されているのはあんたのほうじゃないかい? これ以上グズグズ言いやがると、その三本の髭を引っこ抜いちまうぞ。このタヌキ女!」
「何だって、この女狐め。亭主がありながら、人間の男までたらしこもうっていうんだからね。全く節操がないったら」
「そんなつもりはないさ。私には娘がいるんだからね。そんな恥ずかしい真似ができるものか。きっと自分がそんなだから、人のことがそんな風に見えるんだろう。この脳タリンのポンポコリンのスッポンポンめ」
「何だって? きーっ」
一触即発。二人(?)で今にも掴み合いの喧嘩になりそうだ。そこへ、一人の若い男がフラフラと歩いてきた。
絣の着物に袴姿。前髪を垂らしていて、顔がよく見えない。胸の所には大きな穴がぽっかりと空いていて、風が吹き抜けているように見える。ムネウツロだ。
これも爺ちゃんが言っていた。あやかしには昔から知られているもののほかに、新種がどんどん現れると。
ムネウツロは、自称小説家が売れないままとうとう死んでしまって、妖怪と変じたものらしい。特に悪さはしないが、そばに来られると気持ちは良くない。
「ちょいとお兄さん」
狸夫人が、ムネウツロを振り返って言った。
「あんたも腹を空かせているんだろう。こっちへお出で」
その手を引いて、勝手に人の家の玄関に消えていく。




