参百七拾五 あやかし、ちらほら
「重いかい?」
背中の石児童が聞いた。
「ああ、重いなあ」
おれは答えた。
「そう答えるのは初めてだね。どうだい、おれにはもううんざりだろう? このまま打っ遣ってしまうかい?」
「いや、お前は一生背負ったままだ。おれの十字架みたいなものだからな」
「ふん、強情っ張りめ。見ろよ、本当に十字架をぶら下げた奴がやってきたぜ」
確かに、暗がりの中を背高のっぽが変なリズムを取りながら歩いてくる。近くまで来ると、土塀越しに上半身を折り曲げ、「ヘイ、ユー」と言った。
薄明りの中にもかかわらず、おれの眼前で十字架のペンダントがきらきらと輝いている。
「その先はいいから」
おれは慌てて言った。
「ふん、今日ばかりは勘弁してやらあ」
いつになく言葉がぞんざいである。とうとう塀を跨ぎ越して、庭に侵入してきた。
「何の用だ、こんな所まで。今日のおれは怒っているんだ」
と、おれは言った。
「怒っているのは僕のほうさ」
ラポール鳥居は言った。
「僕の股の下をくぐらないから、こんなことになってしまったんだ。つまらない意地や臆病。それが今の君のすべてさ。そんなものは、ただ自分を愛するが故のものでね、決して相手のためではない。大切なことは共感だ。あれほど言ってきたというのに」
「余計なお世話だよ」
「やれやれ、君は本当に救いようにない人間だね」
ラポール鳥居は肩をすくめて、そう言った。
そのままいつものように消えるかと思ったら、聖しこの夜などと歌いながら、玄関のほうに歩いてゆく。それから身体を大きく曲げて、勝手に家の中に入っていった。
すると、ちょいとあんた、という声が聞こえた。振り向くと、いつのまにか屋根付きの井戸が出現していて、一人の女が立っている。その周囲だけがぼーっと明るい。
「水垢離をしてあげるから、こっちへおいで」
と水かけ女は言う。
えっ、この寒空に? まさかと思ったが、湯浴み乙女のことが気になったので、すぐに駆け寄って尋ねた。
「娘さんは元気にしていますか?」
「ああ、今は幸せにやってるよ。あんたには悪いことを言っちまったね」
「あ、いえ」
そうは言ったものの、今は幸せということは、ここに居た時は不幸せだったってことだろうかと悲しくなってしまった。
「いや、そういうことじゃないんだよ。ごめんね、あんたには感謝をしてるんだから。さあ、片肌をお脱ぎ。本当なら褌一丁になってもらうのががいいんだがね、今日は寒いから」
そう言いながら、桶を構えている。
いや、片肌脱ぐって、着物じゃないんだから。それに例え片肌だって、こんな寒い夜に水垢離なんて無理、無理、絶対無理――。
思わず怯んでいると、
「いつまでもこんな所でぐずぐずしていると、かえって寒い思いをするよ、さあ」
と促してくる。
おれがなおも躊躇っていると、水かけ女はいきなりおれのセーターの裾を持って一気に上まで引き上げた。それから肩を押さえられ、強引にしゃがまされる。
首に上着が引っかかったままの情けない恰好で思った。なんでおれは、いつも女にこんな目に遭わされるんだろう、と。
するといきなり、ザバーっと浴びせられる。飛び上がるほど冷たい。にもかかわらず、おれはとうとう観念し、両手を胸の前に組んで目を閉じた。
二杯目が、またザバーっときた。今度はそれほどでもない。
「さあ、三杯目だよ。これが最後だからね」
また頭の上でザバーっと音がした。しかし、音だけだった。水は身体の周囲に散らばっている。素足に下駄を履いた足元と着物の裾が見えた。頭の上には和傘が差しかけられている。
はっとして立ち上がると、傘骨女だった。女の長い髪はぐっしょり濡れていたが、その日は傘は骨だけではなく、本人の手もちゃんと皮膚で覆われていた。
相変わらず色が白くて清楚な顔立ちをしている。濡れた髪が一筋、二筋乱れるように顔にかかっていて、ぞっとするほど艶つやっぽい。
「何するんだよ、この雨女!」
水かけ女が怒って言った。
 




