参百七拾弍 別れとともにジングルベルが鳴る
少し怒りが込み上げてきた。
「正しい人だなんて、そんなことを言われて喜ぶ人間がいるだろうか」
「でも、私にはそう思える」
京子は強情に言い張った。
「あなたを愛そう、愛そうと一生懸命努力してきたのに、いつもどこかに違和感を感じていた。何故だろうと不思議で仕方がなかった。ある時はこうも思った。実は私は、自分がこしらえた人間に自分で恋しているだけなんじゃないかと。本当のあなたは違うんだと。でも、どこが違うのか、ずっと分からなかった。その正体が今日になってやっと分かったの。あなたはやっぱり正しい人なんだわ」
「何が言いたいんだ」
とうとう声を尖らせてしまった。
「分からない?」
彼女はそう言うと、一度ため息をついた。それから少し考え込むようにしていたが、すぐに顔を上げてこちらを見た。
「たまにあなたの見せる笑顔。優しさ。それにほっとして、そのたびに、ああ、私はやはりこの人を愛している。そしてこの人も私を愛しているんだわ、と思ったりしていた。でも、それは勘違いだった。だって、ほっとするってことは、緊張してたことの裏返しでしょう? 何に、緊張してたのかって? あなたの正しさによ」
これはまずいと思った。以前付き合っていた頃のいつものパターンだ。女に言い返すおれも悪いが、彼女は、どうしても行きつくところまで行かなければ気が済まない性質だった。程よいところでやめることができないのだ。
それが分かっていながら、最後まで付き合ってしまうおれが一番不可いのだろう。これも自分の怒りをコントロールできないせいである。これ以上愚かなことがあるだろうか。
「緊張してただって? 要するに亅おれと一緒にいて居心地が悪かったってわけだ。それは愛なんて言えないな」
「だから、そう言ってるじゃない」
彼女の両目には、すでに涙がいっぱい溜まっていた。
「緊張してただって? おれと一緒にいて居心地が悪かったって?」
おれは怒りに任せて、同じことを繰り返していた。
「最高の誉め言葉だよ。ありがとう」
「どういたしまして。要するに――亅
彼女はわざとのようにそこでいったん区切ると、おれの顔を見た。
「あなたは、ただの石頭のいい人ぶった意気地なしのEDなんだ」
そう言い終わると、口に手を当てた。身体を震わせながら嗚咽している。
なぜいつも、彼女をここまで追い込んでしまうのだろう。程よいところでやめることができないのは、彼女ではなくおれ自身ではないか。
おれは黙り込んだ。だが、もう遅い。いや、まだ間に合う。つべこべ抜かさずに押し倒しちまえよ――。竜之さんの声がした。
そうだ。大切なのは言葉なんかじゃない、共感だ。今のこの刹那に通じ合う心。だが、それをどう確かめる? 言葉はもう無力だ。肌と肌を触れ合わせ、互いの温もりを交感するしかない。
そう決心して、京子を見た時だった。彼女が立ち上がって言った。
「やはり私たち、やり直すのは無理ね」
「……」
おれは一瞬、言葉を失ってしまったが、すぐに気を取り直すように言った。
「ちょっと待ってくれよ。何故君はいつもそこまで思いつめてしまうんだ」
「何故でも」
と彼女は言った。
「ただ、あなたのせいではない。全部私が悪いんだわ。ごめんなさい。あなたを振り回すことになって」
「少し落ち着こうよ。そうだ、近所の人がたくさんご馳走を持ってきてくれたんだ。ワインもシャンパンもあるんだ。今日はクリスマスイブだし、君も最初からそのつもりだったじゃないか」
「もうそんな気持ちにはなれない」
京子はコートを羽織りながらそう言った。
「実はねここに来るまでに賭けをしてきたの。あなたとうまくいったら、このままここで暮らすって。駄目だったら、旅に出るの。前から行ってみたいと思っていた神社がいくつかあるの。冬休みでちょうどいいからね」
すると、何時の間にか目を覚まして、さっきから成り行きを見守っていたつんつくもんが言った。
「駄目だよ、京子さん。僕はここに居たいんだ。やっとここに帰れたっていうのに」
「そうよ、お姉さま」
とエミーも言った。
「わたくしもここに住みたいですわ。だって、ここはわたくしたちの家なんですもの。お姉さま、あなたもでしょう?」
「つべこべ言わないの」
京子はさっさと万年筆をポケットにしまい込み、人形を抱き上げた。こうなると彼女はてこでも曲げることのできない女だ。
「じゃあね、落目君。いい小説が書けるといいわね」
そう言うと、玄関に向かう。
おれは馬鹿みたいに、彼女のあとを追うばかりだった。庭に出ると、もう夕暮れだった。驚いたことに、門のそばに人だかりができている。土塀の上からもたくさんの人が中を覗き込むようにしていた。
京子が出てきたのに気づくと、押すな押すなの騒ぎとなった。後ろから押されて、四つ目垣をバキバキ倒しながら、なだれ込んでくる者たちまでいる。




