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参百七拾壱 欲望と逡巡と欺瞞

 座敷に戻ると、京子はさっきと同じ姿勢で寝ていた。おれはそばにしゃがむと、畳に両手をつき、そっとその寝顔を見つめた。


 彼女は少し眉をひそめていた。恐らく疲れのせいか何かで、厭な夢でも見ているのだろう――。


 そう思いながら見ていたら、いきなりその目がぱちりと()いた。おれはその目に射すくめられたように、変な姿勢のまま固まってしまった。


 京子はおれの顔を見てはいるものの、少しぼんやりしている。何だか遠い所から歩いてきて、ふと誰だか分からない人間に出逢ったような表情だった。ゆらゆらと瞳を動かしていたが、やがてピタリと視線が定まる。


 おれは慌てて、「ごめん」と謝った。彼女は黙っておれの顔を見ていたが、やがてかすれたような声で、「いいよ」と言った。それから再び目を閉じた。


 いいよというのは、謝ったことに対しての返答なんだろうか?

 それとも――。


 京子は依然として目を閉じている。おれはその顔を見ている。心臓はバクバクして、今にも破裂しそうだ。


 おずおずと顔を近づけると、彼女は両腕をおれの首に巻き付けてきた。おれはそれに勇気を得たように、静かに口づけをした。彼女の柔らかい唇。少し冷たくて、少し温かい唇だった。


 もう遠慮は要るものか。おれは一旦離れると、あらためて彼女の顔を食い入るほど見つめた。永久に目の中に焼き付けようと思った。それから彼女の短くなった髪に触れ、同じように声をかすらせながら言った。

「あれから僕は、君のことをずっと追い求めていたんだ。苦しくて苦しくてたまらなかった」と。


「それなら何故?」

 おれの目の奥まで覗き込むようにしながら、京子は言った。そのうち涙が一筋、目尻から流れ落ちた。おれはそれを指でたどるように拭うと、今度はその目に唇を押し当てた。


 それからもう一度身体を離すと、

「分からないよ」

 と言った。

「何もかも分からないんだ、自分自身のことも含めて」


「私もよ」

 と彼女は言った。

「私も自分のことが分からない。こうして横たわって目を閉じているとね、自分の身体がずんずん地の底に沈んでいくような感じがいつもしてくるの。そうして、最後は真っ暗闇の宇宙の中にたった一人、放り出されているような恐怖感に襲われるの」

 本当に両手を広げ、目を閉じている。


 僕がいるよ、とは言えなかった。同じ虚空の中を漂っているおれに何ができよう。彼女の手をつかまえようとしても、するりと抜けてしまって永遠に宇宙の果てまで引き離されてしまうような気さえしてくるのだった。


 おれは急に冷え冷えとした感に襲われ、彼女の温もりを求めるように、がばっと覆いかぶさった。だが、彼女のコートはごわごわとして冷たかった。おれはそれを剥ぎ取ると、もう一度彼女にキスをした。


 欲望は満たせば満たすほど、逆にますます(かつ)えてくる。セーターの上から彼女の片方の乳房を包むようにそっと触ると、はかない感触がした。


 心臓の音を聞こうと耳を当ててみた。鼓動は伝わってこなかった。少し不安を感じたので、起き上がって彼女の顔を見たら、向こうもおれを見返した。


 また胸を触ろうとしたら、もう少しキスしてと言われた。おれは彼女の髪と言わず、首筋と言わず滅茶苦茶にキスをした。彼女も同じように応じてくる。


 そのうちおれは、彼女のセーターに手を掛けた。裾を持って(まく)り上げようとしたが、背中の途中で引っかかって上手(うま)くいかない。ブラウスの裾がめくれ、彼女の白い腹部が少し見えた。


 はっとして手を止めたら、彼女にその手をつかまえられた。それから、空いている方の手でおれの鎖骨の辺りに触れ、軽く押し上げるようにしている。


 おれは彼女から離れると、くるりと背中を向けた。ごめん、とまた謝る。彼女はそのままじっとしていた。二人ともしばらく口を利かなかった。


 しーんと静まり返った中で、構わないからこのまま突き進むんだ。やっちまえよ、と言う声がどこからか聞こえてきた。必死でその声に抗った。そうすれば変われる? 前に進める? 分からないよ、どうしたらいいのか。



 やがて彼女が起き上がる気配がした。衣擦れのような音がしたので、乱れた衣服を直していたのであろう。


 おれは立ち上がって障子を開けた。雪はいつの間にかやんでいた。


「謝ることなんてないよ。あなたは何も悪くないんだもの」

 京子がぽつりと言った。


 振り返ると、俯き加減にひっそりと言った。

「悪いのは私。あなたはきっと正しい人なんだわ。正しいからこそ、黙って私から去ろうとしていたんだ。私のほうから別れを切り出す前にね。そうでしょう?」


「僕は自分のことを正しい人間だなんて、一度も思ったことはないよ」

 とだけ、おれは答えた。おれはヨセフではないと思ったが、口には出さなかった。おれがあのことを知っているのではと、勘ぐっているのだろうか、とも思った。


 京子は騙されていることも知らずに、一人の男をひたむきに愛した。その末に妊娠し、裏切られ、最後には死産という憂き目に遭ってしまった。しかも二度と子供を産めない身体に。


 しかし、何もかもおれと出逢う前のことだ。そんなことをわざわざこちらから持ち出して、僕はみんな知ってるんだ。だから、何も気にしなくていいよ、なんてことが言えるものか。


 それは卑怯でもあり、偽善でもある。相手の弱みにつけ込んで自らを優位に立たせようというものだ。だが、弱みだと? 弱みでも何でもない。そんな単語が出てくること自体、お前は偽善者なんだ。

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