参百六拾八 危ない人形
「子供がママに言いつけるような真似はしたくなかったからさ。そのことで片桐という秘書には、大いにお褒めに与ったけどね」
「男のつまらない意地ってやつね」
ばっさりと斬り捨てられる。
「で、お父さんと会ってどんなことを話したの?」
「会ってはいない。襖越しの対面だった」
「まあ……」
京子は本当に驚いた様子だった。
「ひどい。絶対にあなたに謝罪させてやる。その前に私から先に謝らせて。本当にごめんなさい。今度ぎゃふんと言わせてやらなきゃ」
「別に構わないさ。お父さんの気持ちもよく分かるからね。苦労人なんだろう?」
そう自分で言っておいて、はっとした。
立ち入ったことを迂闊に言ったり、聞いたりしてはまずい。以前にも考えたことはあるが、彼女は、自分があの人の実の娘ではないことを知っているのだろうか。戸籍上では分からないはずだが……。
「確かに苦労人ではあるんだけど……」
京子は少し迷うような素振りをしながら言った。
「で、私のことは何て……?」
「えっ? あ、うん……。君のことは自慢の娘だということ以外は、特に何とも――。主に僕についてだった。僕が売れない小説家どころか、小説家にもなれない小説家もどきだだの、無職で将来性もなく、君のことを幸せにはできないだの、まあそんなことだったかな。まさにそのとおりだけどね」
「馬鹿みたい」
と、京子は激したように言った。
「男が働いて女を養わなければならないとか、男が女を幸せにしてやらなければならないとか――。昭和で頭が凝り固まってるのよ。私は自分の食い扶持ぐらい自分で稼げるわよ。欽之助、あなたもでしょう? 今は無職でも、一生そのままというわけじゃなし、私たちのことは心配しなくて結構よ。そう言って、最後は大喧嘩になってね、とうとう家を飛び出したってわけなの」
おれは彼女の剣幕にたじたじとなりながら、
「でも、そのままにしておくわけにはいかないだろうね。誤解は解いておかないと」
と言った。
「誤解? 何が誤解なのよ」
ショートカットにしたものだから、大きな両目がますます際立って見える。
その両目から放たれてくる強い光に怯みながら、俺は言った。
「いや……。だって、せっかくお父さんが高い買い物をしてくれたと言うのに、それを切り裂いてしまったって嘘をついたんだろう? それをお父さんはそのまま信じた末に喧嘩になったっていうんだから誤解じゃないか」
「父と私との間に、誤解なんて一つもないわ。私は父の言いなりにはならない。あなたと一緒になる。その明確な意思表示をするためについた嘘なんだから。……でも、その前にあなたの返事を聞いてなかったわね。どう? 私たち、やり直せるかしら?」
いきなり、ずばりと斬り込んでくる。
その鋭い切っ先におれが身動きもできずにいると、人形が声を掛けてきた。
「言葉なんかどうでも良くってよ。自分の気持ちに正直になりなさい」
「そうだ、そうだ」
と、つんつくもん。
「君はさっき、奇しくも言ったじゃないか。京子さんが寒いと呟いたのに合わせて、寒いねと。ただそれだけでいいんだよ」
寒いねと相槌を打ったにもかかわらず、おれはその時に温もりのようなものを感じたのだった。
「そうよ。その温もりが大切なの」
と、人形がまた言った。
「お姉さま、こいつから言葉という言葉を全部取っ払っちまうためには――、あっ」
そこまで言いかけて、顔を赤らめている。
あらためて言い直した。
「ごめん遊ばせ。わたくしったら、つい――。わたくしの申し上げたかったことは、人と人との触れ合いで何よりも大切なことは、感情や感覚だってことですわ。絵は色そのもの、音楽は音そのもの、匂いは匂いそのもので感じることが必要なんですの。決して言葉などではなくってよ。
だから、わたくし思いますの。この方に原初の感覚を呼び覚ませてやるためには、その温もりを思い出させてやるといいんじゃないかしらって。そうですわね、例えば皮膚と皮膚の触れ合う感覚。いいえ、もっと遡って粘膜と粘膜、或いは細胞と細胞の触れ合う感覚――」
「ちょっと待った!」
おれは久々に通販番組のように叫んでいた。
すると庭のほうから、車のエンジン音が聞こえた。続いてブレーキ音。ドアのバタン、バタンと閉まる音。
「ごめんください。欽ちゃん、いる?」
玄関先で声がする。
「ちょっと行ってくる」
出てみると、美登里さんが立っていた。
「久し振りね」
と言って笑っている。
「すっかりご無沙汰しまして」
とおれは言った。
「お客さんでしょう?」
座敷のほうを目で合図しながら、美登里さんが聞く。
「ほら、これ」
と言って、保冷バッグのようなものを掲げてみせた。




