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参百六拾六 百年の記憶

「ここのにおい――」

 人形はそう言ったなり、目を閉じた。眉間にしわを寄せながら、また鼻をひくひくさせている。

「何だろう? 何かが呼び覚まされそうな……。暗いわ。……暗い地の底。……常闇(とこやみ)の世界。私はそこにいる。ううっ、何かが私を縛っている。それから必死で逃れようと、私はもがき苦しんでいる。ああ、そして私は怒っている……。自分自身に? それともほかの誰かに?」


「エミー、だめよ。それ以上は」

 京子が制止する。

「もうそれ以上は思い出さなくていい。あなたは生まれ変わったのよ、エミー」


「お姉さまが、優しさからそう仰ってくださるのは存じております。ああ、でも……、もう間に合いませんわ。……お姉さま、息が苦しい。お願いだから、下ろしてくださる?」

 人形の顔は蒼白になっている。


 京子がうろたえるようにこちらを見たので、おれは頷いた。下ろしてもらうと、人形は畳に両手をついて、ハーハーと息を切らすようにしている。


「ここよ、ここだわ」

 そう言うと、畳に突っ伏してしまった。それから肩を震わせて泣き始めた。


「エミー!」

 京子がすぐに膝をついて、心配そうにその肩に手を当てた。


「大丈夫。……しばらくこのままにさせておいて」

 と人形は言った。


 ひとしきり泣くと、静かに起き上がった。両目に涙を光らせながら、こちらを見て笑った。


「大丈夫なの?」

 京子が聞く。


「ええ。全部思い出しましたから」


「全部?」

 京子はそう言うと、不安そうにおれのほうを振り返る。


「そうよ」

 人形は答える。

「私はこの家に、1903年に(きよ)さんとともにやってきた。でも、彼女が嫁いでいった時に、ここに取り残されてしまったの。今から約100年前の1916年のことだわ。それから辛抱強く、彼女を待ち続けた。それなのに、ある人に私は身体を引きちぎられ、里芋畑に捨てられたんだ」


「もう、たくさん」

 京子が涙を浮かべながら言った。

「お願いだから、もうやめて」


 おれも言った。

「もうそれで十分じゃないか。君は十分苦しんだ。これからは、笑って楽しく暮らすんだ」


「まだよ」

 人形は強情そうに言った。

「それでも私は、清さんを待ち続けた。いつかきっと会えると信じて。そうしたら、彼女は本当に帰ってきた。あれは、戦後の大変な時期のことだった。この家のお父様とお母様は、焼け出され飢えた人々を助ける活動をしていたのだけれど、清さんはそれを手伝っていたの。

 ああ、やっと清さんに再会できた。これで私の体も元に戻してもらって、また一緒に暮らせるんだ。そう思って喜んでいたら、彼女は最後まで私に気付くこともなく、再びこの家を去っていってしまったの。1951年にサンフランシスコ講和条約が調印された時だった。それから70年近くなる。この時が一番辛かった。私の体の半分はこの地域を呪い、もう半分は別のものに呪われていたのだから」


「もういい、もういいよ」

 京子がたまりかねたように、人形を抱き上げた。

「エミー、あなたは生まれ変わったのよ。過去のことは全て忘れるの」


「お姉さま」

 人形は京子を見上げながら、厳粛な調子で言った。

「いつまでも曖昧なままにしておいてはいけませんわ。あえて意識の表層に(のぼ)せるの。それを言語化して、しっかりそれと向き合わなければならないの。そうすれば、本当に忘れられるかもしれない」


「そうすれば忘れられる……?」

 京子は人形を抱いたまま、少し衝撃を受けた様子で佇んでいたが、やがてこちらを振り向いて言った。

「言葉が記号のように無色透明なものだったらいいね。数学のxやyみたいに」


「言葉が記号のように……?」

 おれは彼女の言っている意味が一瞬分からず、ぼんやりと繰り返した。


「そう。言葉には人間の数だけ意味がある。でも、記号のやりとりだったら、あなたと私もお互いに勘違いをしたり、不毛な言い争いをせずに済んでいたかもしれないわね」


 確かにそうだと思った。「愛」という言葉一つとっても、その意味をめぐっておれは揺れ動いている。


 相手の中に美を見出し、その相手と一体になりたいという愛。相手のためには死をも厭わないという愛。そして相手を失いたくないばかりに、自らだけでなくその相手さえも焼き焦がしてしまいかねない愛――。


 おれは彼女を愛しているのだろうか? その資格はあるのか? おれが無職で、物質的に豊かな生活をさせてやることができないという問題ではなく、これはおれ自身の品格の問題なのだ。


 そして、それは、彼女の父親がおれに発した痛烈な問いによって、すっかり粉砕されてしまったのだ。

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