参百六拾参 覚悟した女、畏怖する男
2階に上がってくるなり、京子はおれの顔を見て「ただいま」と言った。おれはその言葉にすっかりどぎまぎしてしまい、何と返そうか迷ってしまった。
「お……、お帰り」
やっとそう言った時には、彼女はおれのほうを見ていなかった。
「あっ、どうしてこんな所にこの子を放ったままにしてるの? ひどい」
急いで抱き上げると、おれを睨みながら言う。
「いや、だって――」
「いや、とか。だって、とか。あなたは何かというと、すぐにそんな否定言葉や弁解言葉から入ったりする。あなたの悪い癖だわ。完璧に修復したから、つい触ってみたくなるのは分かるけど、乱暴に扱わないで。せっかくの奇麗なおべべが汚れちゃうじゃないのよ」
そう言うと、おーよちよちと人形をあやしている。
おれは苦笑いしながら言った。
「ちゃんと掃除したから大丈夫さ。しかし、確かにその着物は見事だ。余りにも精巧にできてるから、びっくりしたよ。まるで本当に着付けしたみたいだね」
「だって――、あっ」
そう言って口を押えている。
「これは弁解じゃないからね。だって、振袖も帯も本物だもの。私の婚礼衣装の一部を切り取って、あつらえてもらったの」
京子はそう言うと、まっすぐにおれを見つめた。
意表を突かれ、目を丸くしていると、彼女は続けた。
「金本さんに聞いたでしょう? 二人が婚約したっていうのは嘘だったって。父にも同じ嘘をついちゃった。彼と結婚するつもりだと。だって、煩わしかったんだもの」
「いや、いくら煩わしかったからって、よくもそんな嘘を……」
しまった、彼女に注意されたそばから、また否定言葉を使ってしまった。否定よりも共感だ。だがもう間に合わぬ。おれはもう何年もの間、彼女にこんな態度を取ってきたのだから。
「咄嗟のことで仕方がなかったのよ」
京子は、今度は咎めもせずに言った。
「ああいう人だからしょっちゅう忙しそうにしていて、家でも滅多に会うことがないの。それに、以前のようには私に干渉をすることもなくなっていた」
「ふーん……」
おれはそれを聞きながら、彼は自分で約束したことを守ってくれていたんだなと思った。
「それでも、たまには家で一緒にお茶を飲むようなこともあってね。そうすると、話の流れで、母の思い出話などになったりすることがあるの。それはいいんだけど、お前のお母さんが私と結婚した時は、二十三の時だった。お母さんも、お前の花嫁衣裳が見たかっただろうね、なんて言い出して……。ああ、私に早く結婚しろとほのめかしているんだな。重たいなあって思ったりするの。分かるでしょう?」
「うん……。世間にありがちな話だね」
「うん。それがある日、私が金本さんと付き合っているという噂をどこかで聞きつけたらしくてね、珍しく早い時間に家に帰ってきたかと思ったら、すごい勢いでそのことを私に問い詰めるのね。
それでつい面倒くさくって、適当にうんと答えてしまったのよね。ところが、あの人ったら、それからすぐに彼のことを色々調べてね。その結果、本人も親も申し分ないと、大いに気に入ってしまって、まだ実際に婚約したわけでもないのに、花嫁衣裳まで一式そろえたってわけ」
それが、つい3ヶ月ほど前のことだったというのである。例の、彼女がこんにゃく様でおれと一緒に雷に打たれた事件の少し前のことだった。
その後も十一は、急かすようにいろいろ言ってきた。結納や結婚式の日取りはどうしようか、結婚式は盛大なものになるぞ……等々。
「このままだと、勝手にどんどん話を進めかねないような勢いだったわ。それで慌てて、本当のことを父に打ち明けたの。あなたのことも含めてね」
「えっ、僕のことって?」
ドキッとしてそう尋ねる。
京子は一度目を逸らすと、もう一度こちらに向き直った。
「私はやっぱり、あなたのことが好き」
おれはそれを聞いて、再び雷に打たれたような衝撃を覚えたのだった。
「この前、こんにゃく様で偶然あなたに出逢って、はっきりとそのことを自覚したの。そして、あなたも私のことをまだ愛している。違う?」
ショートヘアにしたので、目鼻立ちがますますはっきりとしている。大きな潤いのある目でじっと見つめられ、思わずおれのほうが目を逸らしてしまった。
おれは京子のことをまだ愛している? しかし、愛とは何だろう。一緒にいて幸せだと思う気持ち? では、幸せとは何だろう。おれは彼女といて幸せなんだろうか。彼女はおれといて幸せなんだろうか。幸せなのに、胸が苦しい。これは何だろう。おれは彼女を愛していると言えるのだろうか。その資格はある?
おれが答えに躊躇していると、
「お姉さま――」
と言う声がした。
見ると、女の子の人形が京子に抱かれたまま、彼女を見上げていた。
「まあ、あなたは――」
京子が目を瞠っていると、
「わたくしはわらわんわらわですわ」
と、また同じように答える。
「わらわんわらわですって? 違う。あなたはもう生まれ変わったんだから。ごめんね、今まであなたに名前をつけてあげてなかった。清さんに返さなければ不可いとばかり思っていたものだから。ごめんね、ごめんね」
そう言いながら、人形に頬ずりをする。
「今から名前を付けてあげる。ええと――、そうだ、エミーがいい。あなたの名前は、今日からエミーだよ」
「エミー?」
人形は可愛らしい表情で見上げながら、問い返す。
「そう。あなたは100年間も辛い思いをしてきた。その分、これからはうんと笑って過ごすの。分かった?」
エミーはにっこりと笑って頷いた。




