参百六拾壱 わらわはわらわんわらわ
「痛っ! やったな、こいつ」
万年筆の妖怪をつまみ上げようとしたら、
「ここはどこ?」
という声がした。
見ると、トランクの中で女の子が上半身を起こしている。桐塑市松の人形だ。つぶらな瞳におちょぼ口。あどけない顔で、きょろきょろ周りを見回している。
顔も手も、すっかりきれいに修復されているうえに、着物は紅地に金糸をふんだんに使った模様のある豪華なものに着せ替えられていた。振袖も帯も、本当に着付けをしたように精巧にできている。
驚いて見ていると、
「あんた誰よ」
と、いきなり聞かれた。
すると、つんつくもんが出しゃばる。
「こいつかい? こいつは欽之助と言ってね、どうしようもない奴さ。この辺では、のっそりひょんとも呼ばれている」
「のっそりひょん?」
女の子はこっちをじろじろ見ると、けらけらと笑った。
「変な名前!」
「君は……」
当惑しながら話しかけようとしたら、彼女はきっぱりと言った。
「わらわはわらわんわらわじゃ」
その言葉に、彼女のこれまでの苦難、悲しみを思わずにはいられなかった。100年もの間、清さんを待ち続け、あとの70年は身体を引き裂かれた末に、一方はこんにゃく様に安置されるも、自ら怪鳥以津真天となってこの地域を呪い、またもう一方は別のものに呪われていたのである。
「呪いはもう解けたんだ。君はもうそんな名前で呼ばれることはない。これからは、さっきみたいに大いに笑って過ごすといい」
すると彼女は、顔を赤くして、ぷいと横を向いた。
「分からないよ。私には何のことだかさっぱり分からない。ただ、私の心に意識というものが芽生えた時、と言うか、心そのものが生じた時に、わらわはわらわんわらわという声のようなものが響いてきたんだ。それがどういう意味なのか私には分からない。
ともかくその声とともに、私の世界は始まったんだ。そしてその世界に最初に登場したのが、あの美しいお姉さまだった。――そう言えば、お姉さまはどこ?」
「今ちょっと出かけている。すぐに帰ってくると思うよ」
すると、それまで黙っていたつんつくもんが口を挟んできた。
「とうとう目が覚めたんだね。良かった。僕のことはもう覚えていないんだろうね? 二人ともずっとここで過ごしていたんだ。でも、君はある日から全く別のものになってしまって、僕のことなんかには見向きもしなくなった」
「ごめん。そう言われても分からないよ。でも、あんたの声は、どこか懐かしいような気もする。それにこの家のにおいも――」
女の子はそう言って立ち上がった。目を閉じて、鼻をクンクンさせる。
「私が生まれる以前の、遠い昔に引き戻されるような――。懐かしい、それでいて哀しくなるような――」
「思い出す必要なんかないよ。君は新しく生まれ変わったんだから」
つんつくもんが言った。
「これも京子さんのお蔭さ。あの人が、君を先生のもとに連れて行って治療させてくれたし、綺麗なおべべにも着替えさせてくれた。それに、今日はこんにゃく様で登世さんに入魂式もしてもらったんだからね」
「あんなの嘘よ。あのお婆さん、インチキだわ」
「えっ?」
「だって、私の意識が生じたのは、身体を治してもらって、綺麗な着物に着せ替えてもらった瞬間だもの。あれ以来、お姉さまは毎日、毎日、私に優しく話しかけてくれた。なのに、わたしはどう対応していいのか分からず、ただもう人形のように黙っておとなしくしていたんだ。ああ、早くお姉さまに会いたい。会っていろいろ話がしたい」
「京子さん、びっくりするだろうなあ。きっと、喜ぶよ」
「ちょっと待って」
おれは念を押すように尋ねた。
「君たちはそろって、こんにゃく様にでかけて、登世さんにも会ったってことなんだね?」
「そうよ」
「そう言ってるじゃないか」
ということは、京子がここに来たということは、すでに皆に知れ渡っているかもしれない。早苗さんにも会いに行ったし……。そう考えて、いやな予感がした。
つんつくもんは重ねて言った。
「実は、清さんがもうここにはいないということも、京子さんは知っていたんだ。前もって登世さんから聞いていてね」
「そうだったのか」
「おい、のっそりひょん――」
「な、何だよ、急に」
「そうだったのかじゃないよ。分からないのか? 何をぼんやりそんなことを呟いてるんだ。この薄らトンカチめ!」
また、足首の所をチクリとやられる。
「ちょっと待ってくれよ。何が言いたいんだ」
「えーい、このこんこんちきの薄らトンカチのぱっぱらぱーめ」
万年筆の妖怪は、その黒い顔を真っ赤にして地団太踏んでいる。




