参百六拾 つくも神のつんつくもん
安太郎さんのトランクは、あの日彼の手記が記された帳面を取り出して以来、開け放されたままだった。京子は空っぽのトランクの中に、人形と万年筆をそっと置くと、立ち上がった。
ふーんと言いながら洋間を見回すと、今度は隣の二間続きの和室に足を運ぶ。すぐに戻ると、「そこも洋間に替えた方がいいわね」などと言うので、「冗談じゃない」と即座に答えた。
「1階だけでも持て余しているというのに。それに、掃除だって一苦労だし――」
「清さんもいないんじゃね」
彼女はそう言うと、椅子に腰を下ろた。
その日の彼女は、黒いパンツに白いセーターの上から、青っぽい灰色のトレンチコートをまとっていた。おやと思ったことは、首にゆったりと巻かれたストールが、赤と緑、それに黒のタータンチェックだったことである。ラポール鳥居が着ていたブレザーと同じ柄だった。
偶然の一致ってやつだろう。おれはそう思いながら、「そこ、大丈夫か? ほこりで汚れないかな?」と聞いてみた。
「何てことないわよ。そんなのパンパンとはたけば終いじゃん」
「おれもパンパーンとはたかれてお終いだった」
軽口を叩いてみる。
「馬鹿ね。本当につまらない冗談。それより清さんはどうしていなくなったの? せっかく、人形を返しに来たっていうのに」
「わけは今から話す。その前に寒いだろうから、ストーブを持って上がるよ。ちょっと待っててくれないか」
「いいよ。すぐに出ていくから」
だから、コートもストールも脱がないままだったんだ……。彼女と久しぶりに二人っきりでゆっくり過ごせる。その期待感が大きかっただけに、ひどくがっかりした。彼女といることこそが、おれにとって苦痛なはずなのに、この矛盾は何故なんだろう。
「どこか遠い所にでも行く途中なのか?」
旅行鞄のことを思い出して、そう尋ねた。
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
また怒ったような顔で答える。
彼女には、おれの知らないことがいろいろある。彼女を知り尽くすことはできないし、彼女を所有することもできるわけがない。それは当たり前のことだ。
おれは気を取り直すようにして、この屋敷にまつわる清さんたちの物語とともに、わらわんわらわの呪いの顛末も話して聞かせた。
「ふーん。そういうことだったんだ」
不思議にも、京子はあまり驚いたような素振りは見せなかった。
「じゃあ、あの人形は……?」
とそちらのほうを心配している。
「ああ、それだったら君にあげるって言ってた。と言うよりも、君が修理をし、新しい着物に着せ替えてやった時点で、人形はもう君のものなんだって。清さんの人形は、彼女のことをここで100年も待ち続けた。清さんはその人形の魂だけを自分の胸に抱いて帰っていったんだ」
「そう。じゃあ、あの人形はもう私のものなんだね」
「うん」
「嬉しい。じゃあ私、今から――」
「もう行くのか?」
つい慌てて聞いてしまった。
「ちょっと、窪田さんのお宅に」
「えっ?」
「土地のことで話があるから。その間、あの子たちを頼むわね」
そう言うと彼女は立ち上がり、本当に自分の尻をパンパンとはたいた。
「えっ? そんなことは竜之さん――、窪田さんからは全く聞かされてないぞ」
「だって、早苗さんには誰にも言わないでねって、頼んでいたもの。じゃあ、行ってくる」
そう言うと、階段をさっさと下りていった。
どうしてそんなことを、わざわざ隠しておかなければならないんだろう……? おれは狐につままれたような気持ちで、そこに取り残されていた。
だが、また帰ってくる。どこかへ行く途中だとしても、少しぐらい話をする間もあるだろう。そう考えながら、すっかり口元が緩んでいるのが自分でも分かった。しかし、何を話せばいのだろうか。結貴のこと? だが、そのことは自分のほうからは切り出しにくい。じゃあ、何を?
「おい」
「……」
「おいってば」
声と同時に、踝の辺がチクリとした。
見おろすと、万年筆に手足の生えた小さな奴が、盛んにおれの足をつついている。
「何だ、つんつくもんか」
馬鹿にしたように言ってやった。
「何だと? つんつくもんとは何だ」
「だって、そうじゃないか。お前は付喪神のつんつくもんだろう」
「変なあだ名を付けないでくれ。京子さんは僕のことを、おチビちゃんって呼んでくれるんだからな」
「そうか。分かったよ、つんつくもん」
「だから、そう呼ぶなって言ってるじゃないか」
また、ブスリ。




