参百五拾四 思いがけない名前
「もし、それが叶わなかったら?」
「お前は、大いに恥をかくことになる。きっと会社中の笑いものになるな。例のセクハラ男も、腹を抱えて笑うだろうよ」
「結構です。恥をかくことは厭いません。私のモットーとするところは、それこそ三角術なんですから。ただし、義理人情は欠いても、ウィンウィンは貫きますよ。搾取なんか、絶対に駄目です。そういう精神を貫くことこそが100年にとどまらず、その先も、日本と相手国双方の繁栄につながることになるでしょうから」
「ふん、また生意気な口を利きおって。だが、漠然としたことでは駄目だぞ。形になるようなものだ。まずは1憶でも2億でもいい。それも1回ぽっきりじゃなく、百年後の未来に道筋をつけるような何かを持って帰るんだ」
「いいでしょう」
「安請け合いしたと、あとで後悔するようなことになっても知らないからな。そうそう、会社からは給料しか支給されないから、必要な金はわしが出す。だが、お前にエサを与えられるのは5年だけだ。わしもこの年だからな。どうだ、5年でそれができるかな?」
「やります。しかし、それが実現できた暁には、私の処遇はどうなるんでしょう」
「そんなことは知らんよ。いくら大株主だからって、一般社員の人事にまではそうそう口は出せんよ。今度だけは特別なんだ。その代わりに、わしの孫娘と引き合わせてやろう。上手くいけば、彼女を射止められるかもしれんぞ」
この老人は、いったい何を言っているんだろう。何度この僕に不意打ちを食らわせば、気が済むっていうんだ。
「ひょっとしてこの私に、コネを使ってのし上がれとでも仰るんですか?」
「あの子は今アメリカにいるんだ。ハーバード大学を首席で卒業してね」
やれやれ、こちらの問いが聞こえなかったのか、孫娘の自慢をしたいだけなのか……。
「うちの株主でもあるバークシャー・ハサウェイで働いていたんだが、つい最近退職した。間もなく帰国して、来年の4月にはジンアイ商事に入社することになっている。だが、決してわしのコネなんかではないぞ。苗字が違うし、中学を卒業してからはずっとアメリカにいたからな、人事の連中もわしの孫だとはまさか気付くまい」
苗字が違うとはどういうことだろうと思ったが、立ち入ったことを聞くわけにはいかない。だが、中学を卒業してすぐにアメリカにいただって……?
老人は、おかきをもう一度ぽいと口に放り込むと、お前も食ったらいい、美味いぞと言う。
「はあ……」
言われるままおかきをつまんだものの、そのことは忘れてしまったようにコーヒーのほうを一口飲んだ。
アメリカか……。
おかきを宙ぶらりんのように指で挟んだまま、ぼんやりしていた。
老人は続けた。
「女房に早く死なれてからは、わしもずっと独り暮らしでな。残された息子はわしに反抗して、大学を卒業するとすぐに出ていってしまった。今は地方で弁護士をやっているよ。その子供たちも、親と同じような道を歩んでいる。ハナは、その……」
そこまで話すと、急に言い淀んだ。キンケツはハッと身体を硬直させて、それから先を待ったが、老人はやたらコーヒーを飲んだり、おかきを口にしたりしながら、いつまでたっても話し始める気配はなかった。
「ハナというのは、お孫さんの名前ですか?」
思い切って、こちらから水を向けてみた。
「うむ……」
老人は心ここにあらずという体だった。
「すべてはわしの至らなさのせいだ。わしのせいで、女房は早死にするし、息子たちもわしの跡を継ぐことはなかった」
それから、辛抱強く聞き出した話の内容は、次のようなものであった。
老人がまだ社長をしていた時の秘書で、藤堂百合子という有能な女性がいた。ありがちな話ではあるが、この女性とは深い関係になっていた。それがばれて、妻との間で一悶着が起きると、百合子は彼の許から去ってしまう。あとで分かったことだが、この時すでに、彼女は妊娠していたのである。
生まれたのは男の子だった。当然、子供は認知したうえで、養育費もきちんと支払ったが、その子が父親に懐くことはなかった。彼の意に反して理系に進むと、世界に名の知れるような学者になる。ついにはMITに招聘され、そこの教授になったとのことであった……。
そこまでの話を聞き終わったキンケツは、すっかり青ざめてしまう。まるでタイムマシンで、いきなり小学生、中学生だった昔に引き戻されたような幻惑を覚えたのだった。
「一応お聞きしますが、そのお孫さんというのは、藤堂ハナさんと仰るんですか?」
震えながら尋ねる。
「むろん、そうだ」
「中学を卒業してから、ご家族でアメリカに移住されたわけですね?」
「さっき、そう言ったじゃないか」
「分かりました」
キンケツはおもむろに立ち上がると、居住まいを正して言った。
「しかし、こんな女装姿をした私でも、本当にお孫さんに引き合わせていただけるんでしょうか」
 




