参百五拾参 老人の挑発
「ふん。まるで中野十一が言いそうなことだな。あいつとそんな話をしたのか?」
唐突な問いに、驚いて老人の顔を見た。
「どういうことでしょう? 会ったこともないのに」
「なんだ、そうだったのか。だが、あいつの娘と付き合っているんだろう? やめておいたほうがいい」
「どうして――。まさか私のことを調べているんですか?」
「馬鹿な。何のためにそんな無駄な金を使わなきゃならないんだ。一度、中野に聞かれたことがあるのさ、お前がどんな人間かってな。自分の娘がお前と付き合っているということが、奴の耳に入ったんだろう」
「ああ、なるほど。そういうことだったんですか。でも、なぜ彼女と付き合うのをやめろと――」
「む……」
老人を少し言葉を濁すようにしていたが、やがてごまかすように言った。
「あの男のことは、わしも買っているし、これまで随分助けてもやった。しかし、奴は危険だ。何をしでかすか分かったもんじゃない。このわしでさえ、時々怖ろしくなることがある。だから、あの男の娘にも近付かないほうがいいと言っているんだ」
具体的にそれがどういうことなのか、もう少し聞いてみたい欲求に駆られた。しかし、深入りは避けた方がいいような気がして思いとどまったのだった。それに、聞いたとしても、この老人は答えてはくれないだろう。
せめて抵抗だけはしてやろうと思った。
「これまで随分教えは受けましたが、私生活のことにまで干渉されたくありません」
「やれやれ、お前はまだまだ青二才だなあ」
老人がため息をつくように言った。
「それに、ただの金持ちのボンボンだ。金に不自由をしたことのない者に限って、さっきのようないっぱしの口を利くんだ。何が一般消費者あってこその会社だ、つまらん正義面をしおって。要するにお前は偽善者なんだよ」
言い返したいのを必死でこらえた。会社での人事や待遇の面で、この老人に別に恩恵を受けてきたわけでもない。しかし、薫陶は受けている。むしろ感謝しなければならない。
そろそろ辞去しようと立ち上がりかけたら、不意に言われた。
「お前を手放すのは、まだ惜しい。だから、会長付きにしようと考えている」
一瞬何を言われたのか分からなかった。
「現会長は派閥にも属さず、無色透明な男だ。人柄の良さだけであそこまで昇りつめたというのは、奇跡に近いよ。まあ、わしの後押しもあったんだがな」
遮るように、慌てて言った。
「会長付きですって? 私を飼い殺しにしようとでもおっしゃるんですか? お断りします」
「さっきも言っただろう。そんな無駄なことにお金を使うものか」
「でしたら、私にいったいどんな仕事をせよと?」
「自分で考えるんだな」
またもや不意打ちだ。意図を図りかねて、老人の表情から探ろうとしたが、その鋭い双眸に撥ね返されてしまった。
降参だ……。
「青二才の私には分かりません。教えてください。私に何をしろと――」
「いいかね、今からわしの言うことは年寄りの愚痴だと思ってきいてくれ。さっきのお前のたわごとを我慢して聞いてやったんだからな」
老人はそう言うと、スマホを手に取った。
「ああ、お茶のお代わりを――、いやコーヒーにしよう。あられか煎餅のようなものがあれば、それも頼む」
改めて広大な庭を見渡した。手入れの行き届いた筑山と池。池の青い水には、紅葉がよく映えていた。少し離れたところに、茶室らしきものがある。
こちらの視線に気づいたのか、老人が言った。
「お前に茶でも立ててやりたかったんだが、今日は時間がない。幹事長の五階堂が来ることになっているんでね。何、どうせ、金の無心だろう」
そこへ、さっきのお手伝いさんがコーヒーとおかきを持ってきてくれた。おお、これこれ、これがサクサクして美味いんだと言うと、本当にサクサクと食べた。
それからコーヒーを一口飲むと、
「日本は経済大国などと自慢していたが、いつのまにか中国に追い越されてしまった」
と嘆いてみせた。
「それでも世界第3位などとほざいているが、聞いてあきれるわい。自殺率はG7でトップだし、幸福度に至ってはビリときている。世界でも50位に届かない。いったい経済力とは何なのだ。お前の言葉じゃないが、全く幻想のように思えるよ。経済力はさておき、日本の国力は確実に衰えておる。
昔、中国人が言っていたんだが、日本人は明日のことしか考えない。しかし、自分たちは100年先のことを見据えて動いている、とな。現にそのとおりになったじゃないか。今や、アメリカさえ脅かすような存在になっている。
しかし、その中国さえ、先のことは分からないぞ。これからすぐにアメリカや中国の時代でもなくなる。じゃあ、イギリス、フランス、ドイツは? 似たり寄ったりだ。もっとほかに目を向けなければ。ヨーロッパにはほかにもいろんな国があるだろう。それだけじゃない。世界には、アフリカも東南アジアも南アメリカもある。
俯瞰外交だなどと暢気なことを言っている場合じゃない。どこでもいいから、現地に直接飛び込んで、そこの人たちと一緒に汗を流してこい。そして、100年後のジンアイ商事、いや日本の繁栄につながるようなものを掴み取って来るんだ」




