参百五拾壱 ビッグマウス、キンケツ
キンケツの話によると、その「院」と呼ばれる老人との出会いは、入社する時の面接試験がきっかけだったらしい。
面接官に、君のモットーとするところは何だと聞かれたキンケツは、即座に三角術だと答えた。面接官たちは互いに顔を見合わせると、それは何だね、とまた尋ねる。
キンケツは答えた。
「もともとは、御社の創業者である金田翁がモットーとされていたものです。ジンアイ商事は、1905年、ちょうど『吾輩は猫である』が、『ホトトギス』に掲載されたのと同じ年に創業されたんですが、創業当時、この三角術というのは、そのままジンアイ商事の社訓でもありました」
面接官たちは、また顔を見合わせた。一人が苛々したように、鉛筆の先をコツコツさせながら言った。
「君がこの面接のために、付け焼刃で勉強したことを披露したいというのは分かるがね、聞かれたことに直接答えなさい。その三角術というのは何だ」
どうやら自分がそのことを知らなかったことに、腹を立てているらしい。
「義理をかく、人情をかく、恥をかくというものです。ビジネスは合理的に、ドライに割り切ってやらなければならない――。もし採用していただければ、私はこの信念のもとにバリバリ働いて、御社を高木忠商事よりも更に大きな会社にして見せます」
面接官たちは大笑いとなった。「院」はすでに現役を退いていたが、この話を伝え聞いて、キンケツを自分の屋敷に招いた。
何かの書を飾った床の間を背に、老人は言った。
「いやはや、三角術とは恐れ入ったね。そんなものは、とっくの昔に社是でも社訓でもなくなっている。このグローバルな時代にあっては、もっと近代的な経営理論、経営感覚が求められているんだ。そんな古臭い考えで外国企業と渡り合えるものと、君は本気で思っているのか?」
もう90に届くほどの年齢と聞いているのに、老人は剣術道場の師範のように静かなエネルギーを漲らせながら、座卓の向こうに端座していた。
「だからこそです」
キンケツは、その鋭い眼光にも怯まず答えた。
「外国人を相手に、義理人情だので商売なんかしていたら、それこそハゲタカに食われてお仕舞いですよ。それに恥をかくのは大いに結構だと、僕は思っています。そうじゃなければ、大きな挑戦はできません」
「ほほお、言うじゃないか。噂どおりの大言壮語漢と見える」
ムッとして言い返した。
「僕は、そんなほら吹き男爵なんかじゃありませんよ」
「ほお。それなら、さしずめ男爵イモってところかな。お前は、ただのイモだろう」
「わざわざお呼びいただいたのは、そうやって侮辱するのが目的だったんですか? 僕は、暇なお年寄りの慰み者なんかになるつもりはありません。これで失礼させていただきます」
そう言って立ち上がろうとした。
「まあ、待ちなさい。気を悪くしたんなら謝る。このとおり、申し訳なかった」
老人は居住まいを正すと、本当に頭を下げた。
「ところで、さっきの話に戻るが、わしの祖父はわざわざジンアイ商事という社名にしたんだぞ。仁愛と三角術は矛盾していないかね?」
「僕は決して矛盾していないと思います」
キンケツは座り直して答えた。
「本当の意味での仁愛は、そんな義理人情や、安っぽい人道主義みたいなものでは、決して実現なんかできないですよ。企業は、政府や慈善団体の役割を担うものではなく、利潤を追求していくものです。時には残酷なぐらいな非情さに徹しないと、熾烈な競争で勝ち抜いていくことなんてできるわけがない。
その場しのぎの優しさではなく、常に大局的に将来を見据えたうえで動いていく。そのことこそが、最終的に社員を守り、国をも守ることができる――。金田翁はそこまでお考えになって、ジンアイ商事と名付けられたのではないでしょうか」
「この馬鹿者!」
それまで黙って聞いていた老人が、突如大声で一喝した。
「このわしに向かって、よくもそんなお説教めいたことを抜かしたもんだ。しかも長々と――。生意気な奴め」
キンケツが顔を赤くしてうなだれていると、老人は少し息を整えて言った。
「だが、面白い奴だ。わしの許には、こちらから呼びもせぬのに、勝手にいろいろな人間がやってくる。官僚に政治家の卵、その他、有象無象がな。
だがどれも小粒で、面白みに欠ける。金太郎飴のようにどこを切っても同じだ。お前のような東大出の若造に、特にそれが言える。だが、お前は少し違うようだ。これからもちょくちょく遊びに来るといい。隠居の身で退屈を持て余しているんでね。なに、決して慰み者にしたりはしないさ。ハハハ……」
こうしてキンケツは老人に気に入られ、時々呼ばれては茶飲み話の相手をするようになったのである。彼も喜んでそれに応じた。老人の話にはいろいろ含蓄があったし、これからも商社の社員として活躍していくためにも、大いに勉強になると思っていたからである。




