参百五拾 途方に暮れちまったんだな
「それが、女子社員たちが僕のことを応援してくれてね」
「えっ?」
「みんなで手分けして、得意先を回ってくれたんだ。僕のことを不快に思うかどうか。さらに仕事の手際はどうかって、アンケートを取るためにね。そしたら、意外なことに大部分の所で高評価だった。中には、僕が来るのを楽しみにしている。そして何よりも、ビジネスの上で十分に満足しているとまで、言ってくれる人もあったらしい」
「へえー。良かったじゃないか」
「ところがそうは簡単にはいかないのさ。まさかそんなものがあるなんて、僕も知らなかったんだが、社内風紀委員会というのが立ち上がってね、僕の処分について検討することになったんだ」
「ふ、風紀委員だって? 何だよそれ、生徒会じゃあるまいし」
「ところが本当にあるんだ。要するに就業規則だとか、社内規程だけでは白黒をつけられないような微妙な問題を話し合うことになっている。一応は民主的な構成になっていてね、労使それぞれの代表だけでなく、男と女、そして各年齢層から代表を出して話し合うようになっているんだ」
「それで、どうなったんだ」
「まあ、待てよ」
キンケツはそう言っておれを制すると、マスターのほうに顔を向けて言った。
「マスター、メロンボール美味しかったです。まさか、今日もこれが飲めるとは思わなかった」
「そりゃあ良かった。実は俺のほうでも、今までこいつは作ったことがなかったんだ。しかし、この前たまたま挑戦してみたら、あんたが美味しいと言って余りにも喜んでたんでね、あの時のあんたの表情が妙に忘れられなかった。今日もあんたが来ると言うから、用意だけはしといたんだ」
「有難う、マスター。今度はレッドアイをお願いしていいですか? おい、落目。君も何か頼めよ」
「ああ、うん。じゃあ、おれは白岳しろをロックでやろうかな?」
「何でもござれだ。任せときな」
マスターはニヤリと笑って、すぐに準備にかかった。
「やれやれ、しようがない奴だなあ。おい、落目。君はカクテル言葉ってものがあるのを知ってるかい? 今頼んだレッドアイのカクテル言葉は、『同情』なんだってさ。どうだい、落目。会社でこんな羽目に陥ってしまった僕に同情してくれるかい?」
「同情? そんなものは自分のほうが高みにいるからこそ、できるものなんだ。おれは無職で、お前は一流企業のエリート社員だ。誰がお前に同情なんかしてやるものか。それよりも、それからどうなったんだ。さあ、白岳しろ。いや、白状しろ」
「馬鹿。もう酔っちまったのか? 幾ら建前の上では民主的に運営する委員会だと言っても、そんなものの代表として集まる連中っていうのは、しょせんは出世の階段を上っていくのを目指している奴らばかりなんだ。僕にとっていい結論が出るわけがないじゃないか。万事休すさ」
すると、ジローちゃんがピアノを弾きながら、突然尋ねてきた。
「ねえねえ、何かリクエストはないかい?」
「それなら……」
とキンケツが少し逡巡しながら答えた。
「僕は、『Dock of the Bay』が聞きたい。マスター、いいですか?」
「ああ。俺はあんたたちが好きなんだ。いいってことよ」
『Dock of the Bay』というのは、マスターの好きなオーティス・レディングの曲である。マスターは若い時に家を飛び出し、危ない稼業で世を渡ってきた。しかし、両親が死んだことを聞いてここに戻り、弟の面倒を見ながら商売をしているのだった。
普段なら弟のジローちゃんと二人きりの時しか、この曲は許されていないのだが、その夜はマスターも何か感じていたのかもしれない。
「お兄ちゃんがいいなら、いいよ」
ジローちゃんは、さっそくピアノを弾きながら、歌い始めた。
Sittin' in the mornin' sun
I'll be sittin' when the evenin' come……
白岳しろのロックはすぐに出てきた。おれはそれを口にしながら、もうほろ酔い加減になって聞きほれていた。
男は遠く故郷を後にして、いろいろ頑張ってみたんだが、挫折してどん詰まりになってしまった。それで一日中、湾の船着き場に座り込み、船が出たり入ったり、或いは潮が満ちたり引いたりしているのを、ぼんやり眺めている……。
「ふん。全く君のためにあるような曲じゃないか」
キンケツが言う。
俺はそれを無視して、氷を転がしながらしつこく繰り返した。
「それでどうなったんだ。さあ、白岳しろ」
「親父め」
「いいから、白岳しろ」
ふざけるようにしながらも、おれは本気で彼のことを心配していたのだった。
そこへ、彼の注文したレッドアイとやらが出てきた。今度は細長いグラスに赤い液体がどろっとした感じて入っていて、上のほうが泡立っている。
「何だ、そりゃ?」
「トマトジュースとビールを半々に混ぜたものさ。ビールをウオッカに代えたら、ブラッディメアリーになる」
「うえっ」
「君、さっきからマスターに失礼だぞ。――こいつを血まみれにしてやっても構いませんよ」
「いや、いいってことよ」
マスターは笑った。
「やれやれ、同情すべきは君のほうだな」
一口飲むと、目を閉じてうーん、美味しいとつぶやく。それから、また付け足すように言った。
「悪酔いを防いでくれるし、栄養もあるから、美容にもいいんだ」
おれはすかさず言ってやった。
「そうだよ、少しは気を付けるがいい。お前はいつも泥酔するから、会社の飲み会なんかでそのうちやらかしてしまうんじゃないかと、おれは心配していたんだ」
キンケツは目を大きく見開いて、こちらを見た。その目が、少し充血している。
「僕は君と一緒の時以外は、あんなに酔うことはないんだ。もっともここでは、いくら君と一緒でも行儀良くするようにはしているけどね。だって、マスター怖いもん」
ぺろりと舌を出して、マスターのほうを振り向く。
「ハハハ。あんたがそんなに酔っぱらっているのを、一度見てみたいもんだ」
「意外だった?」
キンケツは向き直ると、またおれの目を覗き込むようにして聞く。
「そ、それで、会社はどうなったんだ」
おれはそう言うと、あわてて焼酎グラスを口にしてごまかした。
「僕はそれから、いよいよ進退窮まって、辞職するしかないところまで追い込まれてしまったのさ」
「じ、辞職だって? それで、どうするんだよ、お前」
真っ先に閃いたのは、京子のことだった。そんなことになって、あの中野十一が何と言うだろうか。しかし、そのことはあえて口にしなかった。
「そんな時に、院に呼ばれたんだ」
「イン? インって何のことだ」
「院というのは、我がジンアイ商事の創始者である、例の金田翁の孫に当たられる方さ。ついしばらく前まで会長をされていた。一応はしりぞかれて隠居をされているんだが、最大株主であることから、今も隠然たる力を持っているんだ。だから社内ではこっそり、院だとも陰だとも呼ばれ、恐れられているんだ」




