参百四拾八 自分という魔物
部屋を出て、階下の様子を窺った。居間の明かりは消えているが、母のものらしいボソボソとした話し声が聞こえる。
そっと階段を下りていった。居間には誰もいない。声は寝室からのようだった。心配して様子を見に行こうとしたら、「結貴、やっぱり寂しいのかしら」という声がした。
思わず足を止める。どうやら電話で誰かと話をしているらしい。
「ううん、私には全然……。相変わらず素直で、いい子なの。でも、学校では悪いらしいのよ。……そうなの。さっきも言ったけど、今日先生から電話がかかってきてね、宿題はしてこないし、先生には反抗するし……。テストも最近はずっと変な点ばかり取ってるって」
電話の相手は父のようだった。――ああ、やっぱりお母さんに言いつけたんだ。もう絶対に高森先生なんかに謝ったりするもんか。そう憤慨しながら、さらに聞き耳を立てた。
「ねえ、やっぱり仕事は辞めたほうがいいんじゃないかしら? 私ならいい、それがあの子のためになるんなら……。うん……。うん……。分かった、もう少し様子を見てみる。私たちの子供だもんね。大丈夫だよね」
そこまで言うと、母はとうとう嗚咽し始めた。ひとしきり泣くと、気を取り直したように言った。
「有難う。まだあなたには黙っておこうと思ってたんだけど、やっぱり相談してみて良かった。……うん、頑張る。あなたも無理をしないでね。……うん、愛してる。早く帰ってきて。……うん。じゃあ、また」
電話を切った後も、しばらく鼻をグスングスンとさせていた。まるで、父に甘える子供のようだった。お母さんらしくないと思った。母は優しくて、賢い。それに強い人のはずだ。
強くて優しいというのは、何も男ばかりとは限らない。だったら、何も男だからって、男らしくなるために強く賢くなって、女を守ろうとする必要なんかないじゃないか。
でも、今夜の母は、いつものお母さんではなかった。母の泣き声を聞くのは初めてだった。
待てよ。母がこんな風に寝室ですすり泣きするような声を、前にも聞いたことがある。それだけじゃなく、甲高い叫び声を途切れ途切れに上げていた。そして、時折、父の低く抑えたような声が……。
その時の僕は、まだずっと幼くて、訳も分からず居間で一人おびえていたのだった。今になって初めて、その意味を直感的に理解したのである。
僕は静かに階段を上がって、再び自分の部屋に戻った。
母を憎いと思った。彼女に、強烈な女を感じた。もう僕のお母さんではない。ただの女だ。メスだ。お父さんがいなくて寂しいのは、お母さんだけじゃない。僕だって寂しいんだ。それを何だ。自分だけ独り占めのようにして。
父が転勤でいなくなり、母も働くようになって、自分だけがポツンとこの家に取り残されたような気がした。それに、亀井先生までもが、ほかの女と結婚してしまったのだ。
そして、突然のように思い出した。そうだ、ハナちゃん――。
初めて好きになった女の子。あのパンツ事件が起きるまでは、ただの仲良しだった。あれをきっかけに、彼女は僕を避けるようになった。小さな性の疼きのようなものを感じたのは、その時が初めてだった。
人は何故、こうも次々と自分のもとを去っていくのか――。今となれば大げさかもしれないが、その時の僕の幼い魂は、本当にそんな喪失感みたいなものに打ちひしがれていたんだ。
しかし、もっと自分をさいなんだものは、自分が何者なのか分からないという恐怖感だった。男として生まれたという自覚は確かにある。でも、あの日初めて化粧というものをやってみて感じた陶酔感。あれは何だったのだろう。
母を求めるが故だったのか。それとも父を? 或いは亀井先生を? あれほどもう二度とやるまいと後悔したのに、そのことを確かめようとその後も繰り返さずにはおれなかった。
母に露見するのを怖れながら続けていくうちに、いつしかそれが、自分にとって秘かな愉悦のようなものに変わってしまっていた。だが、それだけだ。それ以上、発展するようなことはなかった。
もう一つ、僕を恐怖させたことがある。それは戸籍というものだった。僕が金本結平と貴子との間に長男として生まれたことが、僕の知らない所でそれに記載され、僕の知らない人間に管理される。そして、それは僕がどこに行こうと一生僕につきまとう。
君は笑うかもしれないが、子供の僕は本気でそのことに、窒息しそうなほどの恐怖感を覚えたんだ。
そんな僕が、まあ人並みに成長したのは、一つは祖父母のお蔭でもある。祖父はお洒落でハイカラな人でね。テニスとゴルフが趣味だったんだが、そのうち僕も一緒に連れていって習わせてくれるようになった。
すると、これにすっかりはまってしまってね。ぐんぐん上達した。不思議なもので、それにつれて勉強にも興味が湧くようになって、自分から積極的にするようになったんだ。もう、勉強というものは強く男らしくなるためにするんじゃない。面白いからするんだ。
それからは大学生になるまで、何となく普通に過ごした。こっそり母に隠れて、化粧をすること以外はね。
そうそう、ハナちゃんのことを言い忘れていた。




