参百四拾七 ルージュの誘惑
その日僕は、自分の家にまっすぐ帰った。祖父母は不幸ごとがあって、少し遠方まで出かけなければならなかったからである。
家に一人でポツンといると、今さらのように母のいない寂しさを感じた。先生に言われたことは本当だった。いつも祖父母の所にいたから、気付かなかっただけなのだ。
無駄なことだと分かっているのに、つい、お母さん――、と呼んでしまった。意味もなく家の中をウロウロした挙句に、母が毎朝、身支度や化粧をしている部屋に入った。小さいが母専用の部屋で、常時きちんと整頓されている。
鏡台の前に立ってみた。いつもは背中越しに、母の化粧している様を見守っていたのだが、鏡の中には、青白い顔で立っている自分の姿があるだけである。
ふと母の口紅を手に取ってみた。淡いオレンジ色がかったピンクの口紅――。
震える手で自分の唇に塗ってみた。まだ足りない。肩まで届くようなチョコレート色のウィッグもかぶってみた。
鏡の中に、母がいた。少し口紅がはみ出しているが、悪くはない。これでハナちゃんみたいに可愛い服を着ることができたらどんなにいいだろう。そして、このままの姿で亀井先生の前に現れたら、先生は何と言うだろうか。そんなことを想像しただけで、身体が震えるほどの陶酔感を、僕は覚えたのだった。
すると玄関のチャイムが、ピンポーンと鳴った。心臓が止まるかと思った。
――しまった、鍵を掛けていない。しかし、誰が来ても出なくていいと言われている。どうしよう。
じっと息をひそませていると、またピンポーンと鳴る。そのうち、ドアノブをガチャガチャ言わせて、勝手に誰かが入ってくる気配がした。
「結貴、いるんでしょう?」という声。
――お婆ちゃんだ。
あわててウィッグを取り、唇も拭って、玄関に飛び出した。
「駄目じゃないの。あれほど中から鍵を掛けておきなさいといってたのに。心配だから、念のために来てみたの」
「ごめんなさい。今度はちゃんと掛ける」
「きっとよ。それから、お母さんが帰るまでは、誰が来ても決して出ちゃあ駄目。中で知らん顔してればいいから。分かったわね」
「うん。分かった」
「じゃあ、お爺ちゃんが車の中で待ってるから、もう行くよ」
「うん。バイバイ」
「バイバイ。明日からまたお婆ちゃん家に来るんだよ」
祖母は手を振りながら出ていった。
言われたとおりに中から鍵を掛け、チェーンでロックもした。すると、また外からドアノブをガチャガチャさせている。よし、これで大丈夫ねという祖母の声がした。
大丈夫どころの話ではない。心臓はまだドキドキしている。もう、あんなことは二度とやるもんかと思った。それから、すぐに宿題に取り掛かった。
あっという間に終わったので、今日学校で借りたばかりの本を読むことにした。『大どろぼうホッツェンブロッツ」だ。主人公は泥棒ではなく、カスパールという少年である。彼が、友達のゼッペルと一緒に、泥棒と魔法使いを相手に戦う物語だった。
その夜、母はいつになく疲れたような顔で帰ってきた。
「ごめんね。今日はこれで勘弁して」
と言って、テーブルの上にコンビニで買ってきたらしい弁当を広げた。
僕がそれを食べるのを、母は黙って見ている。
「お母さんは食べないの?」
「今はいい。後でゆっくり食べるね。ところで、宿題は済ませた?」
「うん。とっくに済ませた」
「本当に?」
じっとこちらの目を覗き込んでくる。
「ちょっと、見せてくれる? いや、いい。ごめんね。あなたは嘘なんかつかないもんね。お母さんが悪かった。ごめん」
おかしい。母は子供の僕に対しても、いつも控えめで優しい。だからと言って、過度に謝ったりすることはない。
さては高森先生、お母さんにまで言いつけたんだな。いくら自分が赤ちゃんの世話で疲れているからって、うちのお母さんにまで当たることはないじゃないかと、自分のことは棚に上げて腹を立てたのだった。
母とそれ以上一緒にいるのは気まずかったので、歯を磨いて早めに2階の自分の部屋に引っ込んだ。寝るにはまだ早かったので、机の上で『大どろぼうホッツェンブロッツ」の続きを開いた。
カスパールは、大どろぼうホッツェンブロッツにさらわれ、大魔法使いペトロジリウス=ツワッケルマンはの所に連れてこられる。
魔法使いが、ジャガイモの皮を剥かせるための召使いを探していたからである。彼は、なによりも馬鹿な召使を望んでいた。さもなければ、術を見抜かれてしまうからだ。そこでカスパールは、一生懸命、馬鹿の振りをするのだった。
そこまで読んで、思った。――馬鹿な振りができるということは、逆に知恵があるからということだ。知恵によって、怪物も魔法使いもやっつけてやるのだ。やはり亀井先生の言うように、明日からはちゃんと勉強しよう。
更に続きを読んでいったが、友達のゼッペルが大泥棒の下でこき使われているあたりで、眠くなってしまった。
うとうとしていたら、不意にすすり泣きのような声が聞こえたような気がした。はっとして、涎を拭った。




