参百四拾五 キンケツの孤独
「機能っていうのは、機械とか道具で考えれば分かりやすいかな? 例えば、ここにある電機ポットは、お湯を沸かすものだよね。掃除機はゴミを吸い取るっていう働きがある。じゃあ、あなたに聞くけど、女って、道具や機械みたいに何かをさせるためにあるんだろうか?」
「違う。それじゃあロボットみたいだ。お母さんはロボットじゃない」
「ありがとう」
母はそう言うと、僕を抱き締めた。
「確かに女の体は、赤ちゃんを産むという機能を持っているけれども、それが当然の役割として誤解されている時代もあった。そして赤ちゃんを産んだあとの子育てまでもが、家事と同じで女の役割と考えられていたの。でも、これからは違う。
男と女が愛し合って結婚する。女は男の苗字を名乗る。生まれた子供も男の苗字になる。男は外で働き、女は家にいて育児と家事をする。男は強く男らしく、女と子供を守る。女は優しく女らしく、男と子供に尽くす。
ちょっと前まではそういう考え方が当たり前だったし、誰も疑問を持たなかった。でも、そんな風に初めから決めつけるのは間違いだと思う。あなたが大人になる頃には、世の中も大きく変わっているかもしれないわね」
具体的に何がどう変わるのだろうかと思った。女は子供を産むものだ。男は、女と子供を守らなければ不可い。そうじゃないと男らしくない。男らしいとは、強いことだ。そして、本当の意味で強くなるためには、勉強しなければ不可い。
亀井先生は確かそのようなことを言った。母にそのことを一部否定されたようで、釈然としなかった。
変わるって、何が? 僕はもう、男らしくなるための勉強しなくてもいいのだろうか。ハナちゃんみたいに可愛い服を着たりできるようになるのだろうか。そう考えると、少し息苦しさから解放されたような気もしたのだった。
小学三年生になった時に、僕の周りで二つ変化があった。一つは、亀井先生が別のクラスの担任となったことである。しかも、音楽の先生と結婚した。どちらも人気があったので、生徒たちは喜んでいたけれども、僕は悲しみに打ちひしがれていた。それから勉強に身が入らなくなってしまった。新しく担任となった女の先生に、口答えをするようなこともあった。
廊下でばったり亀井先生に会ったら、ユタカ、元気かと声を掛けてきたので、ぷいと顔を背けてやった。先生は呆気に取られているようだった。いい気味だと思った。
二つ目の変化は、父が転勤し、しばらくして母が外で働き始めたこと。もともと弁護士をしていたのだが、ある裁判で敗訴したことが原因で、つくづく仕事が厭になり、ちょうど父と出会って婚約したのを機に辞めてしまったらしい。
それが何故再び始めることになったのか、子供の僕には聞かされていなかった。僕が食卓の上で宿題をしている横で、ブランクが相当空いてるから、勉強し直すのが大変なのよ、などとこぼしながら、嬉しそうに分厚い本を広げていた。
毎朝、慌ただしく身支度を済ませ、僕と一緒に家を出る。その前に、鏡台の前で喜々として化粧をするのを、僕は興味深げに見ていたものだ。
「なーに? 男は女が化粧をするのを見るものじゃないわよ」
と、母は鏡の中で笑った。
何だ、自分こそ男とはこういうものだと決めつけているじゃないかと思ったが、口に出しては言わなかった。
幸い、母方の祖父母がすぐ近くに住んでいたので、放課後は母が迎えに来るまで、そこで過ごすようにしていた。夜遅くバタバタ駆け込んできて、ごめーんと言いながら、祖母の作った料理を食べるということもしばしばであった。
季節は秋になっていた。ある日、下校しようとしていたら、校庭で亀井先生に呼び止められた。一緒に歩こうと言う。
嬉しかったが、むすっとして返事はしなかった。それでも黙って先生についていった。学校は高台にあって、少し先に小さな公園がある。そこに着くと、東屋に設置された木の椅子に並んで座った。前方は開けていて、街並みがよく展望できた。
先生は椅子に寄りかかると、「ああ。空が高くて、気持ちがいいなあ」と言った。こちらが返事をしないのにも構わず、「昔は、こんな公園なんかなかったんだぞ」と、一人で続ける。
「先生が小学生の時もね、あの町のはずれの方に住んでいたんだ」
そう言うと、不意に押し黙った。不安になって、横からちらっと盗み見ると、目を細めて街並みを眺めている。
それで僕も、母が働いているのはどの辺りだろうと見ていたら、
「お父さんは転勤で遠くへ行っちゃったし、お母さんも働き始めたから、寂しいんだろう」
と突然言われた。
先生がこちらの目を真っすぐに見つめている。思わずどぎまぎして、
「そんなことないです」
と答えた。
「そうか。それならいいんだ」
再び空を見上げる。
「僕の父は小さな町工場を経営していてね、母もそれを手伝っていた。でも、苦労が祟ったのか、早くに死んでしまったんだ。僕は、先生に反抗したり、クラスの子ばかりでなく、時には上級生と取っ組み合いの喧嘩ばかりしていた。そんな僕が、まさか同じ小学校の先生になるとはね――」
そう言って、笑った。




