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参百四拾参 キンケツの恋

「例えば女の子と道を歩いている時に、恐ろしい怪獣に出会ったとする。そこでかっとなって、その怪獣に立ち向かったりするようでは駄目なんだ。それは本当の勇気とは言わない。それは蛮勇と言って――」

 そう言うと、黒板に漢字を書いてくれた。


「勇気は勇気でも、馬鹿な勇気なんだ。だって、まともに怪獣なんかと戦って勝てるわけないじゃないか。それじゃあ、女の子も守れないぞ。だから、男らしくないと言うんだ。じゃあ、どうすればいいのか。頭を使うんだよ。そこでかっとなったり、あたふたしたりするんじゃなく、どうしたら彼女を守れるのか、落ち着いて考えるんだ。そういう場面に遭遇しても冷静でいられること、それを男らしいと言うんだ」


 今度は、「遭遇」と「冷静」の二つを書いて、その言葉も意味を教えてくれた。そして、こう続けた。

「この場合、真っ先に考えられることは、どこかに隠れるか逃げるかだね。これは決して卑怯じゃない。むしろ勇気ある行動と言ってもいいんだ。それで彼女と自分を守れるんならね」


 僕はそれでも納得できず、質問をした。

「でも、どこにも隠れる場所が無かったら? 逃げても、怪獣に追いつかれたらどうしたらいいんですか? その時になって考えても、もう間に合わないじゃないですか」


「いい質問だ」

 亀井先生はにっこりと笑って言った。

「だったら、最初からそんな危険な道を通らなければよかったんだ。そうだろう? ここは怪獣が出そうだとか、ここは木陰があって休むことができるとか、あそこは高台で見晴らしがいいとか、きちんと下調べをしておくべきなんだ。もちろん、人生は前もって下調べしたり、計画したとおりにはいかないんだが」


 ここで先生は、「困難」という大きな文字を、チョークでカッカッと音を立てながら書いた。


「いいかい、みんな?」

 と、一度皆のほうを振り返る。

「これはみんなにも言っておきたいんだ。君たちの人生はこれから大きく開けていて、希望と可能性に満ちてもいる。でも、全てが思いどおりにいくわけじゃない。大きな困難に直面することもある。しかし恐れる必要はない。勇気と知恵さえあれば、必ず乗り越えられる。そして、このことはしっかり覚えておいてほしい。時には隠れたり逃げたりすること、これも立派な勇気であり、知恵でもあるんだ。君たちが大きくなって困難に直面した時に、先生のこの言葉を思い出してくれたら嬉しい」


 教室はしーんと静まり返っていた。僕はなるほどと思った。


 僕は男だ。男は男らしくなくちゃ不可(いけな)い。そうでないと女の子を守れない。男らしいとは、怪獣に遭ってもバタバタせず、無闇に立ち向かったりもせず、知恵を使って怪獣にやられないようにすることだ。あるいは、最初から怪獣に出会わないようにすることだ。そのための知恵を、僕は学校で学ぶんだ。だから、これからも一生懸命勉強しよう。


 そう決心したのだった。そして、亀井先生のことがますます好きになった。


「さあ、二人ともこれでいいかい? 良かったら握手して仲直りしようか」

 先生がトミオと僕の顔を交互に見ながら聞いた。


 僕はすぐにトミオの席まで歩いていって、右手を差し出した。向こうも照れ臭そうにこちらの手を握った。


「さあ、みんな拍手」

 そう促され、クラスの皆がパチパチと手を叩いた。


「そうだ、もう一つ君たちに言っておきたいことがあるんだ」

 僕が自分の席に戻ると、先生は教壇から皆を見回しながら言った。


「今日の発端、始まりは、あだ名のことからだったね。みんなにはそれぞれ親からもらった立派な名前がある。だから、本当はお互いにその名前で呼び合うべきなんだ。そこで君たちに聞きたい。その前に、みんな机の上に顔を伏せてくれるかな。いいって言うまで顔を上げちゃあ駄目だぞ。それでは、君たちの中であだ名で呼ばれていて、それが厭だなあって思っている人は、その姿勢のまま手を()げて。――よし、分かった。5人ほどいるな。本当はまだいるかもしれないけど、無理はしなくていいからね。


 さて、今度は、いま友達のことをあだ名で呼んでいる人は、さっきのトミオと同じようにここで考えてほしい。自分がそのあだ名で呼ばれて、厭じゃないかどうか。どうだ、考えたかな? はい、みんなもう顔を上げていいぞ。いいかい? 先生は、あだ名が全て悪いとは言わない。だが、考えてほしい。あだ名っていうのは、その人のことを親しみを込めて呼ぶこともあるが、からかったり悪ふざけで付けたりする場合も多い。中にはそれで傷つく人もいるんだ。


 そこで先生から提案だ。一応この教室では、あだ名で呼ぶことは禁止しない。その代わり、本人だけじゃなくみんなの了解の上でということにする。つまり、本人だけじゃなく、ほかの人が聞いて不快に思うようなものは駄目だってことにするんだ。どうだろう? 先生が言ったからって、そのとおりにすることはない。みんなで考えてほしいんだ」


 すると、みんなからまたパチパチと拍手が起こった。



 そういうことがあって、僕はもう二度とパンツなどと呼ばれることはなくなった。ハナちゃんも、また話しかけてくるようになった。元どおり仲良くなりたいようだった。しかし、僕はもう彼女のことなどどうでもよくなっていた。亀井先生に夢中になっていたから。


 先生と結婚するにはどうしたらいいんだろう。夫婦は苗字が一緒だ。だから苗字が一緒でないと結婚できない。子供の僕はそう勘違いしていた。金本富雄とは仲直りしたものの、あんな奴とは絶対に結婚したくないと思った。それで、ある日学校から帰ると、台所仕事をしていた母に直接聞いた。


 母は噴き出して、危うく包丁を取り落としそうになった。それから振り返って、優しく教えてくれた。

「あのね、結貴(ゆたか)。苗字が同じ人と結婚するんじゃなくて、結婚すると女の人は男の人の苗字に変わるの」

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