参百四拾弍 性の目覚め
それを最初に意識したのは、確か小学一年生の時だったと思う。初めての遠足があってね、みんな真新しいリュックだとか水筒だとかで、まあ何の他愛もないことなんだが、名前を書いているかどうか互いに確かめっこしてたんだ。
ハナちゃんっていう可愛い子がいてね、下げている水筒に名前が見当たらない。誰かがそれを咎めるものだから、その子は泣きそうになって、底に書いてあると言う。それで僕が、下から覗き込んで見たんだ。
その途端、男の子たちが騒ぎ出してね。「ユタカ君が、ハナちゃんのスカートの中を覗いた」、「ハナちゃんのパンツを見た」って。僕は何のことか分からず、茫然としていた。
その子は確かに可愛かったし、当日着ていた服も可愛かった。だが、スカートの中を覗くという発想は僕にはなかったし、その意味も分からなかった。その日から僕にとって周りの子は、ただのハナちゃん、ただのタロウちゃんではなくなって、女の子のハナちゃん、男の子のタロウちゃんに変わったんだ。
そしてもう一つ、僕の中に疑問が芽生えたんだ。それは、なぜ男は大人も含めて何の変哲もない恰好をしているのに、女は綺麗な恰好をしているんだろうということだった。鳥だって、オスのほうが着飾っているじゃないか。その時は、ただ不思議に思っただけなんだけどね。
ともかくその日から僕は、「パンツ」っていうあだ名を付けられた。実は、そのハナちゃんって子が僕は好きだったんだ。まあ、初恋って言ってもいいだろう。席も隣同士でね、その子も僕を嫌ってなかったと思う。
ところが、例の一件以来、その子から避けられるようになってしまった。人生で初めての失恋だ。
クラスに金本富雄っていう奴がいたが、たまたま姓が同じっていうだけで、親戚でも何でもない。こいつが特に僕を目の敵のようにして、二年生になっても執拗に僕のことをパンツ、パンツと言い続けるんだ。たぶん、自分がハナちゃんのことを好きだったからじゃないのかな。
ある日の掃除の時間だったが、余りにもしつこいから、とうとう頭に来てね、そいつと取っ組み合いの喧嘩になってしまった。誰かがクラス担任を呼びに行ってすぐに止められたんだが。
クラス担任は亀井先生と言って、若くてハンサムで、生徒にはとても人気があった。掃除のあとに帰りの会があって、二人とも自分の席で立たされた。
どっちが先に手を出したと聞かれたから、僕ですと正直に答えた。何故、手を出したと重ねて聞かれたから、パンツと呼ばれたからですと、これもストレートに答えたんだ。これにはクラス中、大笑いだったな。ハナちゃんは真っ赤になって俯いていた。
すると亀井先生は、富雄のほうに向かって聞いた。
「ユタカには、金本結貴という立派な名前がある。それなのに何故、そんなあだ名で呼ぶんだ?」
富雄は突っ立ったまま、何も答えない。
「何故、答えられない?」
これにも答えられず、俯いてしまう。
「いいか、トミオ。君に二つ言っておく。人前で堂々と言えないことは最初からするんじゃない。これが一つだ。分かるか?」
そう言われ、今にも泣きそうな顔で小さく頷く。
「それからもう一つ」
亀井先生は、優しい顔で富雄の顔を見守りながら言った。
「金本富雄君、君はどうだろう。もし君が、トミオじゃなくパンツって呼ばれたら嬉しいかい? 嬉しくないだろう。自分が厭だと思うことは、人にもしちゃあ不可い。分かるな」
富雄はとうとう、しゃくり上げ始めた。それでも何とか頑張って、はい分かりましたと言った。
僕はその時、自分が勝ったと思ったんだ。僕は泣かなかったし、先生がこっちの言い分を認め、公正に裁定してくれた。そう思って、少し得意になっていた。
すると、先生がまた僕のほうを見て言ったんだ。
「それからユタカ。先に手を出した君も良くない」
心外だったから、すぐに言い返した。
「でも、そうしないと、いつまでもパンツ、パンツと言われます」
ここでまた、クスクスと笑いが起こる。
それにもムッとなってしまった。
「じゃあ、僕はどうしたら良かったんですか?」
と、先生を問い詰めるように聞いてしまった。
「ほかに方法があるだろう?」
そう言われた僕は、意味が分からないまま先生の顔を見返していた。向こうも真っ直ぐにこちらの目を見つめながら続ける。
「気に食わないことがあったからって、すぐに暴力で訴えるのは良くない。腹が立ったからって、すぐにかっとなるのも良くない。それは男らしくないことなんだ」
「男らしくない?」
「そうだ、男らしくない」
先生はきっぱりと言った。




