参百四拾 ダビデ王
「いらっしゃ――、おっ、これは」
女の顔を真正面からまともに見たマスターが、息を呑んでいる。
「いやあ、やっぱり驚かせちゃったかな? ごめんなさい」
女が言った。女が……。いや、この声は?
「僕だよ、落目」
女が……、おれのほうを向いて言う。
「また、焼酎を飲んでる。相変わらずだなあ、君も」
「キンケツ!」
目の玉が飛び出してしまった。
「お、お前、本当にキンケツなのか?」
丈の高いスツールから危うく落っこちそうになりながら、かろうじて聞いた。
「そうだよ」
と、事も無げに答える。
「そうだよって、お前……。眼鏡はどうしたんだよ」
「今日はコンタクトにしたんだ」
「じゃあ、その髪は? お前、リクルート活動始めた時から短くしてたじゃないか」
「何てことはない。カツラさ」
「いったい、どうしたっていうんだ」
「うるさいなあ、もう」
気分を害したようにぷいと横を向いたが、すぐに顔を戻すと、じっとおれの目を覗き込むようにして聞いてきた。
「僕をよく見て。どう? 人に不快感を与えるような恰好をしてるかい?」
おれは相手の視線にどぎまぎしながら、首をぷるんぷるんと振った。
「じゃあ、似合ってる?」
今度は縦にがくんがくんと振った。――正直、よく似合っている。
「良かった」
安心したように、にっこりと微笑む。
「マスター、この前、メロンボールというのを試しに作ってくれたじゃないですか。今日も頼めますか?」
「あっ、うん……。いいとも、任せときな」
彼もさっきから呆気に取られていたようだったが、それっきり余計なことは言わずにすぐに準備にとりかかる。
しかし、このおれはそうはいかない。キンケツのほうを改めてまじまじと見つめながら、しかし、いったいどうして――、と独り言のように同じセリフを繰り返していた。
「やれやれ。そんなどうでもいいことにいつまでもこだわっているところを見ると、君もやはり月並みな男なんだなあ」
あきれたような顔をしながら、そう憎まれ口を叩く。いつものキンケツだ。
「ごめん、悪かったよ」
とおれは謝った。彼にだって何かの事情があるのだろう。これ以上詮索するのは野暮ってもんだ。
すると、ジローちゃんがさっき口をあんぐり開けてキンケツを凝視していたことをすっかり忘れたように、弾き語りを始めた。
Somewhere over the Rainbow…… おれの好きな曲の一つだ。
「はいよ」
マスターが、キンケツの前にできあがったばかりのカクテルを置く。
キンケツはそれを手に取ると、その美しい緑色の液体に見入るようにしながら、つぶやくように言った。
「この前、君の家に行ったろう? つる坊とキョンシーと三人で」
「ああ」
「実はあの頃、僕は会社で最悪の状態に置かされていたんだ……」
金本結貴はそう言うと、ぽつりぽつりと語り始めたのだった。
アメリカ支社で、大きなプロジェクトを任されることになっった話は、前にしたよね。そのプロジェクトリーダーの男がいてね。と言うか、今もいるんだが。
うちの会社には、派閥が二つあるんだ。僕は派閥なんかには属さない主義なんだが、そいつは幅を利かせているほうに属していてね、そいつがチーム内のある女性を好きになってしまった。
もちろん好きになるのは勝手だ。妻子持ちでなければね。しかも、その女性には同期入社の恋人がいたんだ。社内恋愛は禁止だったので、同期のうち、僕を含めて一部の友人たちだけしかそのことは知らなかったんだ。ところが、悪いことにそいつに知られてしまった。
というのが、彼女が自分で喋ってしまったんだ。何度もそいつに言い寄られて、困った挙句にね。で、そいつはどうしたと思う? 派閥のボスにそのことをチクったのさ。
可哀そうに、恋人の男のほうは地方にある子会社に左遷されてしまった。小さな倉庫会社でね。そいつのセクハラ攻勢は、それからますますひどくなった。




