参百参拾九 美女現る
このような日々を過ごしているうちに、季節は冬を迎えていた。竜之さんは、いつまでたっても寅さんたちと仲直りをする機会を設けてくれようとはしなかった。おれのほうからも、あえてそれを持ち出すことはなかった。
そんなある日、突然キンケツから電話があった。会って話したいことがあるから、青山の<ヴィクターズ>まで来てくれ、と言う。てめえのほうで用事があるというのに、人を呼びつけるとは何だ、とどやしつけてやった。
すると、悪いが忙しくてなかなかそっちまでは行けない、と平気で言う。まるで、こっちが暇を持て余していると言わんばかりだが、毎日竜之さんにいいようにこき使われている身としては、反駁のしようがない。
何だ、彼女のことかと聞いたら、しばらく間があって、そうだと返事が返ってくる。だから、具体的に何の用なんだと重ねて聞いたら、詳しくは会って話したいということだった。
京子のことで話があるというからには、結婚式の日取りが決まったとでもいうのだろう。ことによると、友人代表でスピーチをしてくれなどと、このおれに頼むつもりかもしれぬ。おのれ、最後の最後まで嫌がらせをしようってんだな。
しかし、おれは逃げない。ここで逃げたら男が廃るってもんだ。おれは、恥の文化に生きる人間なのだから。それに安太郎さんの二の舞は演じたくない。これをきっかけにして、奇麗さっぱり彼女のことを忘れてやるんだ。
こうしておれは、東京の一番はずれの地から、はるばる都心の青山まで出掛けていったのである。キンケツの要望で空いている時間がいいと言うので、約束の丁度6時に<ヴィクターズ>に着いた。
店内に入ると、マスターがすぐに気付いて、やあ、と笑い掛けてきた。
「ご無沙汰しました」
おれは真っ直ぐにカウンター席まで歩いていき、彼の正面に座った。キンケツはまだ来ていなかった。
「1年ぶりだね。金本さんからあんたが来るって聞いてたから、楽しみにしていたよ。ビールは飲むかい?」
「そうですね。ここまで来るのにちょっと寒かったから、何か温かいものにしようかな。いいちこのお湯割りを」
久し振りに店内を見回すと、ピアノが一番に目に入ったので、
「ジローちゃんは元気ですか?」
と聞いてみた。
「元気だよ。例によって、散歩をしているところだ」
ジローちゃんは、毎日朝と晩、決まった時間に散歩をする。コースも決まっている。ちょっとでも順路を変えると、迷子になってしまうのだ。
「景気はどうですか?」
「お蔭さんで」
有田焼の焼酎グラスがカウンターに置かれる。全体が黒く、口が金で縁取られていて、おれのお気に入りのものだった。
「あんたが時々新聞社の人を連れてきてくれただろう? それに、金本さんもお得意先の人を紹介してくれてね。その人たちが来てくれるようになって、まあどうにかこうにかやってるよ」
「そうですか。良かった」
おれは安心して、焼酎のお湯割りを飲んだ。
すると背後で、お兄ちゃん、こんにちはという声がした。振り返ると、ジローちゃんが立っていた。
白髪交じりの短髪。モスグリーンのジャンパーの下は、いつものライトベージュのチノパンツ。例によって茶色の鞄をたすき掛けにしている。
「ジローちゃん、こんにちは」
「何だ、オッチャンか。京子さんは?」
早速ピアノの前に腰掛けて言う。
「彼女は来ないよ」
「じゃあ、『As Time Goes By』は、なしだね」
と言って、その日は何かおれの知らない曲を弾き始めた。
「ご挨拶だなあ」
マスターはニヤニヤ笑いながら、グラスを磨いている。
すると、またドアが開く気配がした。キンケツだろうと思って振り返ると、一人の女がすっと立っていた。
会社帰りであろうか、灰色がかった黒のパンツスーツ姿で、白いブラウスは胸元を大きく開けている。アッシュブラウンの長い髪がスーツによく合っていて、ぞっとするような美人である。
ジローちゃんのピアノがぴたりと止まった。口をあんぐり開けて、彼女を見つめている。無理もない。
女はちらっとこちらを見ると、ハイヒールの音を響かせながら、真っ直ぐに歩いてきた。カウンター席まで来て、おれの真横に座る。
おれはびっくりして、彼女のほうを振り向いた。ほかにも席がいっぱい空いているというのに、よりにもよって何故ここに――。
女は知らん顔をして前を向いている。ひょっとしたらマスターの知り合い? まあ、この人なら、こんな美人の知り合いがいてもおかしくないだろう。そう思って二人の顔を見比べた。




