参百参拾五 欽之助、再び酒の肴にされる
「あの……」
この人が目の敵にしている以上、こちらから寅さんのことは流石に切り出しにくい。
「今日のことは、お前には本当に感謝しているんだ。さあ、飲めよ」
「いやあ、耕運機を横倒しにしたりで、足を引っ張ってばかりだったからなあ。かえって、一人のほうがはかどっていたんじゃないですか?」
おれは一応謙遜しながら、そう言った。
「場合による。だが、あの山の中で、あいつのことを考えながら仕事をするっていうのは、精神的にきついんだ。気が滅入ってしまうんだよ。分かるだろ?」
「ええ、分かります」
確かにそうだろう。癌が転移してもう助からないかもしれないという人の代わりに、その夢を実現させてあげようっていうのだから。たとえ義侠心から始まったことでも、それが義務のように心に重くのしかかってくるのかもしれない。
「誰かが傍にいて無駄口を叩きながらでも一緒に作業をした方が、はるかにはかどるんだよ。多少は足を引っ張られてもな」
「ほら、やっぱり足を引っ張られたって内心は思ってたんだ」
「そんなことはない。楽しかったよ。フフフ……」
不気味な笑い方をする。
「早苗、こいつはな耕運機に投げられたんだ。見事な一本負けだった」
「耕運機に投げられた? 嘘お」
早苗さんが噴き出す。
「本当だって」
立ち上がって、やってみせる。
「いいか、俺が耕運機だとするだろ? 俺の手がハンドルだ。それでこれがこうなったと思ったら、欽之助の身体がくるりと裏返ったんだ。柔道で言えば、袖釣り込み腰みたいなものかな? こいつったらしばらく空を見上げたまま、目をぱちくりさせていたよ。それがまあ、可笑しくっておかしくって。フフ……」
しまいにとうとう我慢できなくなったように、ブワッハッハッハと笑いだした。早苗さんも一緒になって笑っている。
おれは肴か……。くっそー、最初からこれが目的だったんだな。虎を餌にメダカを釣ろうとは、何と言う魂胆。こうなったらまな板の上のメダカだ。どうにでも料理しやがれってんだ。いや、待てよ。やはりこのままでは引き下がれない。さんざん人をこき使っておいて、何たる仕打ち。おのれ、何としてくれよう。
「竜之さん」
おれは静かに言った。
「何だ?」
向こうは大口を開けたまま、間抜け面で聞き返す。
「おれに感謝してくれるのは嬉しいんですが、早苗さんに全部用意させるっていうのはいかがなものでしょう。ひどいじゃないですか、自分はのんびり風呂になんか浸かっておいて。早苗さんは、昨日疲れて帰ってきたばかりですよ。しかも三つも大きな仕事を片付けてきたんでしょう? おれのことなんかほっといて、もう少し奥さんのことをゆっくり労ってあげるべきじゃないですか?」
「お、おうよ。お前の言うとおりだ」
「奥さんなんて言わないでって言ったでしょう。気持ち悪いから」
早苗さんが割って入る。
「それにね、この人は夕べ私のためにご馳走を用意してくれたの。それが嬉しくて、ついワインを飲み過ぎちゃったけどね」
「そうだったんですか」
「うん」
竜之さんが、照れ臭そうに小さな声で云う。
「まあ、今の俺にできることと言ったら、煮るか焼くかチンするか、この三つだけだけどな」
「へえー。それで何を作ったんですか?」
おれは興味を持って聞いた。
「料理の基本はおいおい習っていくから、とりあえずお前は休んでくれと言って、夕べは俺一人でやってみたんだ。まずはただの煮物だ」
「何を煮たんですか?」
「えーと、コンニャクと人参と昆布と椎茸とレンコンと鶏肉、あとは、えーと……、まあ、そんなところだよ」
「あれ? 今もここにあるじゃないですか」
「そうだよ。美味しかったから取っておいたの」
と早苗さん。
「ほんと、美味しいです。これって味付けは?」
「うちにあるものを使った。まずは水だ。それから酒、砂糖、しょうゆ……。そうそう、出汁はあごだしを使ったかな?」
「それぞれの分量は?」
「何だよ、えらい突っ込んでくるなあ」
「済みません。参考にしたいんです」
「そうか、お前は一人暮らしだからな。だが分量なんて適当だよ。適当にどばっ、どばって入れりゃあいいんだ」
「ええっ、そんなんでいいんですか」




