参百弍拾六 欽之助の小さな決意
考えてみれば、おれもずいぶん他人にあだ名を付けてきたものだ。つる坊とキョンシー、それにキンケツは、大学の文芸サークルで出会ってからすぐに付けてやった。しかし、京子のことをマドンナなどと言い出したのは、おれではない。自分の彼女のことを、そんなあだ名で呼ぶ馬鹿があるものか。
樫木正雄と中浜喜与志は、最初は嫌がっていた。それで樫木には、坊がつるから取ってやったんだ、ラムサール条約にも登録されてるんだから名誉だと思え、と言ってやった。中浜には、キョンシーって可愛くていいじゃないかと取り合わなかった。そのうち、二人とも何も言わなくなった。
だが、今では二人とも俳句の世界で有名人だ。そんな彼らを、いつまでもつる坊だのキョンシーだの呼ぶのはまずいだろう。これからは先生とでも呼んでやろうかしらん。おれとは違って、悪い気はしないだろう。
金本結貴は、おれからキンケツと呼ばれると、落ち目で金のない人間の僻みなんだろうと言って、せせら笑っていた。当たらずとも遠からずだ。こいつは初対面の時から印象が悪かった。
今は就職して髪を短めにしているが、当時は肩まで届くほどの長さだった。少しウエーブのかかった髪は、ツヤツヤのサラサラだった。そばによるとシャンプーしたてのようないい匂いがしたものだ。何よりも癪だったのは、真ん中から分けた髪を目が少し隠れる位に垂らし、アンニュイな雰囲気を漂わせていたところが、少し京子に似ていたことだ。
それに髭はもともと薄いのか、綺麗に剃っているし、清潔感にあふれていた。背もすらりと高く、いわゆるイケメンである。しかも、身につけているものと言えば、金縁の眼鏡をはじめ上から下までブランド品で固めている。男から見たら本当にイヤミな奴だったが、これで女にもてないはずがない。
ところがキンケツの奴は京子一筋とばかりに、他の女には全く目もくれなかった。文芸サークルなどで京子と話していたりすると、すぐに間に入ってきて、おい落目、落ち目などと言っては、ちょっかいを出してくる。そして、さんざん人を貶めたり、あざ笑ったりするのだった。
京子がいる時ならまだしも、いない時でも同じだった。親友の樫木や中浜と遊んだり飲み会をやったりする時も、どこで聞きつけるのかこいつは必ずついてきた。そして例のごとく憎まれ口ばかり叩くのである。よほど京子のことで、おれを敵視していたんだろう。
しかし、今では立場がすっかり逆転してしまった。実は、前から少し腑に落ちないことがあった。あの父親が、何故あんなチャラ男を認めたのかということだ。どう考えても、あの男の眼鏡にかなうような奴ではない。
しかし、あの男はこうも言っていた。もう、娘には干渉しないと。それにキンケツの勤める仁愛商事は、慈民党とも関係が深い。しかもキンケツはああ見えて、社内ではかなりな有望株らしい。悔しいが、娘の伴侶としてはおれよりはるかにましである。京子とはおれの意志で別れたとしても、やはり憎い奴であることに変わりはない。だから、キンケツは最後までキンケツのままだ。
中野十一はどうか。巷では寝業師だの風見鶏だの呼ばれてきたが、最近では妖怪だとも。早苗さんが新たに付けたあだ名は、チムニーマンだ。
半分にちぎられたモチの話は内緒だと言われていたのに、早苗さんはすでに竜之さんとおれに喋っている。だが、彼女がそれでやめることはないだろう。中野十一が自分で公に喋ったことではないので、この話は伝説のように拡がっていく。それにつれて、彼に新たなあだ名が付け加わっていくのかもしれない。
ところで、このおれ自身はどうなんだろう。これまで何度も書いてきたように、おれのあだ名も変遷してきた。オッチャンからボッチャン、ボッチャンからのっそりひょんへ――。
のっそりひょんとは、ふるっている。寅さんのお母さんである登世さんが付けたものだ。悪意に満ちている。皆に京子のことを紹介したかったのに、遮られてばかりだったものだから、おれに八つ当たりして付けたのだ。
そしてこれからも、新たなあだ名が加わっていくのだろう。あだ名だけでなく、いろんなレッテルも貼られていく。住む処が変われば、人も変わる。人が変われば、おれに対する見方も変わる。それにおれ自身も変わっていく。
どんな呼ばれ方をしようが、どんなレッテルを貼られようが、おれは平気だ。おれは常にそれを裏切り、すり抜けていく。なぜなら、人はそんなあだ名やレッテルで一括りにできるようなものではないし、何より人は変わっていくものだから。
次の日、竜之さんがおれの家にやってきた。寅さんたちと早速仲直りをさせてくれるのかと期待していたら、
「汚れてもいいような服に着替えてくれ」
と言う。
何ですかと聞いても、いいから、いいからと答えるばかりである。仕方なく言うとおりにして外に出ると、軽トラで待っていた。
おれが乗り込むと、
「よっしゃあ」
と掛け声を上げ、行く先も告げずに発進する。
畑の中の道をしばらく行くと、広い道路に出た。スーパーの前を通り過ぎ、右に曲がると下り坂である。そこを下って、すぐ左手に新興の住宅地らしきものがあった。
軽トラは、その住宅地の中を行く。
「こんな山の中を造成して、新しく団地を造るとは思ってもみなかったよ」
竜之さんが運転しながら言う。
道路の両脇は、いかにもできたてらしい瀟洒な家々が並んでいた。玄関脇にはさっぱりした立ち木が植えられていたり、綺麗な花壇がしつらえられたりしている。小さなブランコが設置されている家もあった。
真ん中の通りを突っ切ると、行き止まりは藪になっていた。しかしよく見ると、間に小道が走っていて、軽トラはお構いなしにずんずんそこに入っていく。




