参百弍拾五 欽之助、特に何もせず感謝をされる
「その小ネギは味一ネギって言ってね、大分県のブランドらしいの。味もピカイチ、香りもピカイチっていうから試しに買ってみたんだけど、どう?」
「へえー、そうなんですか」
おれは早速、麺と一緒に口にしてみた。なるほど……。ほのかな甘さと、かすかな辛み。それに麺の滑らかな舌触りとネギを噛んだ時のシャキシャキ感が絶妙なバランスである。
夏はやっぱり冷たいそうめんだが、これからの季節にこのにゅうめんとやらは確かにいい。それに、いろいろアレンジがききそうだ。舞茸の代わりに、ブナシメジや椎茸もいいし、カニカマでなくても、ただの蒲鉾でもいいだろう。小ネギの代わりに水菜などもいいかもしれない。油揚げを短冊に切ったのも。えーい、つべこべ言わず、缶詰のサバの水煮をどかんと豪快に載っけてやるか。カイワレ大根でもちょっと添えて。
おれは一人暮らしだから、これからも自炊生活が続く。もしかしたら、一生。しかし面倒臭い料理は苦手だ。外から見ただけで食材が分かるものがいい。
レシピによっては、とんでもない数の材料が羅列されているものがある。見ただけでやる気が失せてしまう。それに、見たことも聞いたこともないような調味料。こんなの近所のスーパーで買えるのかな、と思えるような。
だから、こういうにゅうめんのようなものを知ると、ひたすらレパートリーとして追加していくことにしているのだ。
「どうだ」
と竜之さんがしつこく促すので、
「微妙ですねえ」
とおれは答えた。
「微妙だと?」
再び目を剥く。
「あっ、言い間違えた。絶妙です。ホント、おいしいです」
「ほお、それだけか? もっと具体的な感想を口にできないのか? 俺の心に突き刺さるような」
「食レポか」
とおれは返した。
「竜之さん、百聞は一口にしかずですよ。早く食べないと伸びてしまいますよ」
「あっ、本当だ」あわてて一口すすると、
「おいしいじゃないか」と、嬉しそうに言う。
「おいしいわね」
「おいしいです」
三人でただ、おいしい、おいしいを繰り返しながら、ひたすら麺をすすった。おいしい、の一言で十分だ。心のこもった一言は、百万言に勝る。
愛している……。ただその一言だけで良かったのだ。あるいは言葉さえ要らない。ただ黙って、じっと目を見つめる。手を握る。ただそれだけのことを、おれはできなかった。おれの怯懦であり、怠慢であり、傲慢でもあった。だが、もう間に合わない。
「早苗!」
竜之さんが叫んだ。
「な、何よ、突然?」
早苗さんが目を丸くする。
「俺にこれから料理を少しずつ教えてくれ。何だか面白くなってきた」
「やったー」
こっちを見て悪戯っぽく笑うと、今度は夫のほうを振り返って言った。
「アンタ、才能あるよ」
「そ、そうか」
「私にも少しずつ農業のこと教えてね」
「うん」
「ご馳走様でした」
おれは二重の意味を込めてそう言うと、立ち上がった。
「昨日、今日と本当にお世話になりました。楽しくて、ついつい長居をしてしまいました。これからもどうぞよろしくお願いします」
おれは心を込めてそう言うと、深々と頭を下げた。
すると、竜之さんが飛び掛かってきた。がばりとおれをハグする。
「お礼を言わなけりゃならないのは、こっちのほうだ。有難う。これからもよろしく頼む」
そう言いながら、頬をスリスリしてくる。
朝、髭をそっていないんだろう。痛い。チクチクする。それに気持ち悪い。なにしろ、鉢巻をして、女物のエプロンを身に着けた髭面の大男に、そんなことをされているんだから。
早苗さんが笑いながら言う。
「欽ちゃん、私からもお礼を言うわ。今日は本当に有難う。話をじっくり聞いてもらえてうれしかった。これからもよろしく」
こうしておれは、この一家からようやく解放され、清々しい気分に浸りながら帰路についたのだった。




