参百弍拾四 犬だって食べるっしょ
向こうから声が聞こえる。
「何から始めりゃいいんだ」
「そうめんは茹でるのに時間がかからないからあとでいいんだよ。まず具材から準備するの。とりあえず、このまいたけを適当に手で裂いてくれる?」
「石突きは取らなくていいのか?」
「えっ、あんたそんなこと知ってたの? へえー、意外ィィィ! でも、これは最初からカットしてくれてるから必要ないんだよ」
「おお、そうなのか。ほいほい。何だ、簡単じゃないか」
「はい、次はカニカマ。これも裂くっていうか、軽くほぐすだけでいいから。そうそう、手つきがいいじゃん。あれ? アンタ、手は洗った?」
「あっ」
「もおォォォ」
全くもう、いちゃついているのか何だか――。いい歳をして何だ。電車の中の高校生カップルじゃあるまいし。
一人取り残されたおれは、大型テレビの真っ黒な画面を見ながら、八十八のことを考えてみた。
竜之さんは、いくら自分が米作りに命を賭けていたからって、そんな名前じゃあ、息子が悪ガキどもにからかわれるかもしれないということに思い至らなかったのか。
それとも、自分の息子なら、そんなものは跳ね返していけるとでも考えたのか。仮にそうだとしても、せめて本人に断ってからにすればよかったのに。
八十八は、そんな自分の名から逃げようとした。しかし、いくら逃げてもついて回る。名前だけでなく、あだ名だってそうだ。小学校から中学校に上がって、もうあの忌まわしいあだ名で呼ばれなくて済むと期待していたら、誰かがこっそりそれを引き継いで、ほかの誰かに伝承したりする。
現におれは、小学校から大学まで、オッチャンと呼ばれていたのだから。幸い、気に病むようなあだ名でもなかったが。しかし、今では落ち目ののっそりひょんだ。
八十八の場合は、中学生になってハチがヤソに変わっただけだ。キリスト教は、今ではすっかり日本の生活に根を下ろしているから、まさか差別的にそんなあだ名で呼ぶような中学生はおるまい。ただ単に面白がっただけなんだろう。
だが、本人からすればいやに決まっている。ましてや、アーメンなどと呼ばれるなど堪ったもんじゃない。それもこれも、八十八という名前が原因だ。だから、それから逃れようともがき苦しんだ。
それだけではない。この名前にまつわる農家の後継ぎという問題があったのかもしれない。現に父親がそういう意味を込めて付けたのだから。後継者となるべき長男いう軛からも解放され、自由になりたかったのではないだろうか。
彼にとってその手段はギターであり、音楽であった。ライブハウスに出演できるぐらいだから、それなりの才能はあるんだろう。しかし、自分で言っているとおり、成功できるのはごくわずかな人たちだ。
自分にどれだけの才能があるのか、いつまで努力を続ければいいのか。彼は今、それを冷静に見極めようとしている。仮に夢破れて故郷に帰ったとしても、決して負け犬なんかではない。また新しい夢を見つければいいのだ。人間にはいろいろな可能性があるのだから。
故郷に帰った時点で、彼は元の八十八に戻る。しかしそれは、親が勝手な望みを抱いて付けた名前ではない。彼は生まれ変わるのだ。そして、自らその名を選択するのだ。誰が何と呼ぼうと、もうへっちゃらだろう。
「おーい、できたぞ。こっちのテーブルに来いよ」
竜之さんの声がする。
言われたとおりに席を移ると、
「はい、お待ちどおさん。俺の人生初の料理だ」
と、にゅうめんとやらが入ったどんぶりを置く。
「料理ってほどじゃないけどね」
早苗さんが苦笑する。
にゅうめんというのは、おれにとっても初めてのものだった。そうめんは冷やしたものを麺つゆに浸けるか、ぶっかけにして食べるものだという固定観念しかおれにはなかったので、少なからず驚いた。具材は、わかめ、まいたけ、小ねぎ、それに軽くほぐしたカニカマが乗っている。
「さあ、召し上がって」
と竜之さん。いつものように鉢巻をして、女物のエプロンをしている。
召し上がって? 気持ち悪っ……。
「どう、似合うでしょう?」
早苗さんが横から夫を見上げながら言う。
「エヘヘヘ」
こっちは照れ笑いをしている。
「ご馳走様」
「ご馳走様?」
竜之さんが目を剥く。
「あっ、間違った。いただきます」
慌てて、箸で麺をすくって口に入れてみた。
あっ、これだ。これこれ……。麺は固すぎもせず、柔らかすぎもせず、ほどよいコシを保っている。この喉越し、これがたまらない。
「どう?」
「どうだ?」
二人そろって、目をキラキラさせながらこちらを見ている。やれやれ、夫婦喧嘩は犬も食わずと言うが……。また、ご馳走様と言いたくなった。




