参百弍拾参 欽之助、窮地に立たされる
そしてその笑顔を、そのまま早苗さんにも向けた。
「良かったですね。でも、僕があえて話を聞く必要はなかったんじゃないでしょうか? 近頃の若い子は、なんてさっきはおっしゃってましたが、立派な息子さんじゃないですか。――あっ、分かった。息子さんの自慢をしたかったんだ」
そう茶化すように言った。
「それがそうでもないのよ」
向こうは少し困ったような顔をしている。
「八十八の言うとおりだわ。勝手に送金したり、勝手に押しかけて部屋の掃除をしたり。とうとうあの子の夢までも奪ってしまった。自分でも本当は迷ってたんだと思う。それを私が――。私は、近頃世間で言われている毒親なのかもしれない」
「それなら、俺もその毒親ってやつかもしれない」
と、彼女の夫も真面目な顔で言った。
「あら、アンタ、毒親なんて言葉を知ってたの?」
「ああ。俺も秘かに、この小さな胸を痛めていたからな。暴言を吐いたり、怒鳴りつけたり。時々反省はするんだけれども、また同じことの繰り返しだった。俺は子供たちに対して、何というひどいことをしてしまったんだろう。そしてそれはもう、二度と取り返しがつかないんだ、そう思うことがしばしばある」
ほっと安心したのも束の間、何なんだ、この深刻な展開は――。久々のピンチだ。さて、どうして凌いだものか。
おれは急いで、自分の死んだ両親に思いを馳せてみた。もし生きていたら、今のおれの体たらくを見て何と言うだろう。
そんな所にいつまでもいないで、家に帰ってこい。県庁か市役所か、学校の先生にでもなれ。そして嫁さんをもらえ。
まあ、そんなことを言うのが関の山だろう。
世の親が、みんなお釈迦様や観音様のような人ばかりだったら、苦労する子供はいないし、逆もまた真なりだ。人間の親も不完全なら、人間の子も不完全だ。ましてや、あのマリア様だって何か口出しをして、キリストにたしなめられたし、そのキリストさえマリア様を悲しませたではないか。親の心、子知らず。子の心、親知らずだ。
親は子供を傷つけるし、そのことに気付いて自分自身をも傷つける。気付かないまま、子供を傷つけ続けるのを毒親と言うのだろうか。だとしたら、少なくともこの人たちはそうではないだろう。だからこそ……
「娘さん、何かあったらパラシュートで落下するみたいに帰ってくるんでしょう?」
おれは半分冷や汗をかきながら、竜之さんにそう言ってみた。
「おうよ。そして孫と一緒に、1週間でも2週間でもごろごろ何もしないで居座り続ける。母親にゴロゴロニャンニャン甘えてな。パラサイトだな、あれは」
「パラサイトって言葉、覚えたんだ」
と早苗さん。
その彼女に向かって、おれは言った。
「息子さんが家に帰らないのは、夢を追っているからですよ。でも、夢がいつも叶うとは限らない。その場合はいったん家に帰って、夢を紡ぎ直す必要がある。息子さんは今そう考えているんです。娘さんも息子さんも、いざとなったら帰る所がある。毒親の元に自分から帰ろうとする子供なんていないと思いますよ」
二人ともしばらく考え込んでいるようである。そろそろ潮時だと思い、腰を浮かせかけた時だった。
「あっ、もうこんな時間」
と早苗さんが急に声を上げた。
「本当だ。もう昼飯の時間じゃないか。道理で腹が減ったわけだ」
「ゆうべ飲み過ぎたから、やっぱり麺類がいいんじゃないの?」
「おう、待ってました。それだよ、それそれ。頼む」
「頼むじゃないわよ」
「えっ?」
「アンタが作るの」
「何だって、俺が?」
「そうだよ。八十八に言われてるの。まだどうなるか分からないけど、俺が帰った時のために親父を躾け直しといてくれってね」
「あいつめ、どんだけ小癪な口を聞けば。俺はね、今度のお前の家出で、もう十分性根を叩きなおされましたよ」
「だったら、その証拠を見せなさい」
「どうしても駄目かい? 今日だけでコーヒーを3回も淹れたっていうのに」
「だめ、ダメ、駄目! もし私が先に死んで、子供たちにも見捨てられでもしてみなさい。どんだけ惨めな思いをするか。全くこの人ったら、インスタントラーメン一つさえ、まともに作れないんだから」
最後はこちらに向かって言う。
「あっ、じゃあ僕はもうこれで」
「だめよ。今日は話を聞いてもらってすっきりしたから、お礼に御馳走させてもらうわ。御馳走と言っても、ただのにゅうめんだけどね」
そう言いながら、渋る竜之さんをむりやりに台所まで連れていってしまった。




