参百弍拾弍 息子を見直す
「うーん」
竜之さんは考え深げに腕組みをする。
「それだけ難しいことに挑戦しているわけか。あいつが家を出てから、もう5年になるよな。よくまあ、それだけ長い間諦めずに頑張ってきたものだ。それはそれで見上げたものだが……」
「そう。それだよ。アンタのそういう一言さえあれば、あの子も本当に帰ってくるかもしれない」
と早苗さん。
「帰るって? 夢を諦めるとでも言うのか?」
「どこかで見切りをつけないとね」
「夢をそんなに簡単に諦めるなんて男じゃない」
「ほら、またそんなことを。アンタは何かと子供たちに対して、何だ男のくせにとか、女のくせにとか言うのが口癖だった。だから子供たちもあんなに反発してたんじゃない。もういい加減、その昭和のコチコチ頭を揉みほぐして柔らかくしなさい」
「むむっ、あのいけ好かない男と同じようなことを言うのはやめてくれ」
「いけ好かない男って誰よ」
「だから、あの野郎だよ。へなちょこ野郎のへな男だ。瑞穂の旦那の。この俺に向かって、お義父さんは考え方が旧式過ぎる。そういうステレオタイプの考えを押し付けられたんじゃ、瑞穂さんが可哀想だ。ジェンダー差別の典型だなどと訳の分からないことをほざきやがって」
「あら、アンタみたいな怖い親父にも怯まず、自分の妻をちゃんと守ったんだ。決してへな男じゃない。むしろ男らしいじゃないの」
「男らしい?」
「あっ」
少し頬を赤らめる。
「まあ、それはそれとして、男って夢を見過ぎるのよ。何かを始めようとするときに現実を見ずに、まず形から入ったり、高い道具をそろえたりする。アンタの場合は、一千万円のトラクターだった」
「うっ」
「アンタには農業で頑張るという夢があった。だから、高齢で農業を続けられなくなった人の土地も引き受けたりしながら、ひたすら規模拡大していった。そうすれば生産コストを減らせるということを信じてね。足し算だけで考えてはいけないという寅さんたちの意見には耳を傾けようとさえしなかった。彼を見返してやろうという気持ちもあったんだよね」
竜之さんは腕組みをしたまま、何も言わずにうつむいている。
「私もいけなかったんだ。アンタの好きにさせたままだったから。何をどう作ればどんな交付金がもらえるかとか、ローンの返済も見ながら収支がどうだとか、そういった面でサポートすべきだった。だから現実をみていなかったのは、私も同じ。これからはしっかり手伝うから、一緒に頑張ろうね」
「うん」
竜之さんはただそう言って、何度も頷くばかりだった。
「タチュユキ――」
「えっ?」
「大丈夫だよ。あの子は私たちと違って、しっかりと地に足を着けている」
「そうなのか?」
「うん。あれから私もあの子に言うこともなくなって、それに深夜にもなっていたから寝ることにしたんだけどね。なかなか寝付かれなくて、ベッドで何回も寝返りを打ったりしていたの。そしたら、床の上に敷いた布団でもうとっくに眠ってしまったと思っていたあの子が、突然言ったの。――七十七だって」
「七十七? いったい何のことだ」
「私も咄嗟に何のことか分からなくて、どういう意味か聞いたの。そしたら、彼がこの5年の間に受けたオーディションだとか、どこかのレコード会社に自分の曲を持ち込んだ合計回数だと言うじゃない」
「で、それが?」
「あと、十一回挑戦してみるって言うの。それでも駄目だったら、元の八十八に戻るんだって。その時にはもう誰にも、自分の名前のことでとやかく言わせないし、農業も継いでやるんだってよ」
「継いでやる? 何だ、恩着せがましい」
口とは裏腹に頬が緩んでいる。
「それからさっきも言ったけど、アンタに隠してこっそり送っていたお金、あれも使わないでそっくり貯めていたのよ。あの子、何て言ったと思う? お爺ちゃんとお婆ちゃんを介護するために、郵便局を早く辞めたじゃないか。だからあんまり貯金も溜まっていないだろうし、もらえる年金も少ないんだろう? だからこの金は大事に使ってくれって、そう言うの。ね、しっかりと現実を見ているでしょう」
「うーむ」
「それにアンタが大変な借金をこさえたうえに、土地もいくつか手放したことも、瑞穂から聞いて知ってたの。俺が今に何とかしてやるって言ってた」
「ふん、小癪な」
竜之さんはそう呟くと、おれに向かって言った。
「おい、欽之助。お前との養子縁組はなかったことにしてくれ」
「残念です」
おれは満面の笑顔でそう答えた。




