参百弍拾壱 オイさんがオヤジになる
「クソ親父だとお?」
ここまでの話を聞いて、竜之さんは怒り狂った。
「親に向かって何て言い草だ。それに今頃になって何だ、めめしい奴め。それならそれでその時言えばよかったんだ」
「だから、その時に文句を言ったの。でもアンタは笑うばかりで、何にもならなかったって」
「そりゃそうだ。役場に届けて5年も10年も経つってえのに、どうにもなるもんか」
「でも、改名できた例もある」
「じゃあ、変えたほうが良かったのか?」
「それは、私にも分からないよ」
「いっそあの時に、そいつらの親父を呼びつけといて、張り倒してやればよかったんだ」
「だからよ。アンタがそんなにあるものだから、あの子も言うのを諦めて、そんなことにも一人で耐えて来たんじゃないの」
「だったら今頃になってそんなことを持ち出すんじゃないよ。最後まで自分だけの腹に抱え込んどきゃいいんだ。何だ、男のくせに」
「その男のくせにっていう言葉が一番悪いの。アンタはいつもそう言って、あの子がギターを弾くのさえ怒鳴りつけてた。そんな暇があるなら、百姓を手伝えって。何よギターぐらい。だからこんなことになってしまったっていうのが分からないの?」
「む、むむう」
鉢巻をぎりりと締めつけた。
「もういいよ。それにしてもクソ親父だとお? チクショウめ。俺はもう本当にあいつを勘当することにした。おい、欽之助――」
「はい」
思わず身体が硬直した。
「お前を嫁さんにするのはやめた。俺の息子になってくれ。百姓はこの俺が一から仕込んでやる。
トラの奴はなあ、息子の出来がいいものだから、どっかの一流企業かなんかに就職して、今はアメリカにいるんだ。だから百姓なんか継ぐわけがねえ。それでトラの奴め、どうもあの誠を自分の息子にしようとこっそり目論んでるみたいなんだな。だから俺は、お前を息子にする。あんな奴に負けてたまるものか」
そう言って立ち上がると、移動式のテーブルをどけ、虎の皮の敷物をまたどすどす踏みつけ始める。
おれは両親に早くに死に別れ、愛する女とも最近別れたばかりだ。別に誰かの養子になろうと構わない。
だが、おれには小説がある。今は余り書けてはいないが、これから書くんだ。今に書く。きっと書く。芥川賞を取る。きっと取る。そして、あの中野十一を見返してやるんだ。だがあの男は、そんなものには一文の価値も置かないだろう。新聞記事かなんかを見て、ふふんと鼻で笑うかもしれない。しかしそれでもいい……。
「おい」
「……」
「おいってば」
「は、はい」
「心ここにあらずってやつだな。さっきの返事はどうした」
イヤですとは言いにくい。おれは早苗さんのほうを見て、助けを求めた。すると彼女は、優しく夫の手を取って言った。
「アンタ、そう短気になることはないよ。まだ続きがあるから、おとなしく聞いてくれる?」
「う、うん」
本当におとなしくなって、再びソファに腰を沈めたが、
「おい、欽之助」
と早苗さんの向こうからこちらを覗き込むようにして声をかけてきた。
今度は何だろうと思って聞いてみると、
「プロのミュージシャンになるっていうのは、本当に東大に入るより難しいのか?」
と言う。
「そう思います」
とおれは答えた。
「ミュージシャンに限らず、お笑いの世界でもスポーツの世界でも、成功するのはごくわずかな人たちばかりです。何の世界でもそうですよ。いくら才能があり、血の滲むような努力をしたとしても、それで必ず成功するとは限りませんから」
芥川賞も……とおれは心の中で付け加えた。東大を出たからって、何にも関係ない。ましてやおれには才能などないかもしれないし、努力もまるでしていないのだから。




