参百拾九 八十八
彼女が部屋の中を綺麗に片付けて待っていると、八十八は深夜になってやっと帰ってきた。すっかり疲れきったような様子である。
「何で勝手に入ってきたりするんだよ。いくら息子でもプライバシーってものがあるだろう」
すぐに不機嫌そうな顔で文句を言う。
「それが久し振りに会った母親に対する言葉? お父さんに隠れてこっそり援助してやっているっていうのに」
八十八は、父親に似てひょろりと長い体を窮屈そうに折り曲げながら、床に腰をおろした。相変わらずふてくされたように言う。
「俺のほうから頼んだわけじゃない。それに、おふくろが勝手に俺の口座に入金している金は、手を着けずにそのまま貯めている」
「また見栄、張っちゃって。この飽食の時代に飢え死になんかされたら、世間に顔向けできないんだからね」
「それ見ろ。本当は俺のことが心配なんじゃなくて、世間体なんだよ」
「そうだよ。その何が悪い? 田舎は、そういうことがすぐに知れ渡ってしまうんだから」
「俺が大学を中退したのも恥ずかしい。定職についていないのも恥ずかしい。そうだろう?」
「それは違うね」
即座に否定されたものだから、向こうは言い返すこともできずに黙って母親の顔を見つめた。
「アンタはこれから長い人生が控えているんだよ。二十六にもなって、いまだにそんな調子でどうするの? ミュージシャンになるなんて、いつまでもそんな夢みたいなこと言ってないで、もう少し地に足を着けてものを考えないと」
「勝手に人の可能性を閉ざすなよ」
「もう……。さっきから勝手に、勝手に、勝手にとばかり。何よ、馬鹿の一つ覚えみたいに。じゃあどうなの? ミュージシャンになれたっていうの?」
「ああ、なれたさ」
「なれたって……。あんたの言うのは、もしかしてストリートミュージシャンっていうものじゃないの? それで食べていける?」
「それだけじゃない。ライブハウスにも出ている」
「聞いているのは、それで食べていけるかどうかってことなの。現に今日もアルバイトだったんでしょう?」
「うるさいなあ」
とうとう八十八は声を荒げた。
「俺がどういう生活しようが、俺の勝手じゃないか。プロを目指して努力してるんだよ。それの何が悪い。人様に後ろ指差されるようなことはいっさいしてないんだから。それに、親には決して迷惑なんかかけないさ」
「じゃあ、プロになれそうな見込みでもあるの?」
「簡単に言わないでくれよ。いいか、おふくろ。プロのミュージシャンになるってのはね、東大に入るより難しいんだから」
そう言って、してやったりというような顔をしている。
しかし、それで言い負かされてしまうような早苗さんではなかった。
「だからこそよ。だからこそ、そんな夢みたいなことを考えていないで、もっと着実な道を選ぶべきなのよ。お父さんの言うことを聞いて、農業を継ぐべきだったの。いや、今からでも遅くない。家に帰って、お父さんに謝んなさい。そして農業を継ぐの。これからはお母さんも一緒にやることにしたから」
すると彼は、何も言わずに壁に立てかけてあったギターを手に取った。そのまま抱きかかえて、適当に弦をつま弾いている。やがて、ぽつりと言った。
「農業で食っていけるのか?」
この不意打ちには、さすがの早苗さんも言葉を失ってしまった。向こうは、またギターをボロンと鳴らす。
「何か、歌ってくれない?」
と苦し紛れに頼んでみた。
「いやだ」
「どうして?」
「どうしてって、家族の前でなんか歌えるもんか。照れ臭くって」
早苗さんはそれを聞いて、一応は家族だって思ってくれてるんだと、少し安心したのだった。
「おふくろ――」
八十八はギターを元に戻すと、ふと口を開く。
「何?」
「人間にいつもつきまとって、一生離れないものが何か分かるか?」




