表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
322/514

参百拾九 八十八

 彼女が部屋の中を綺麗に片付けて待っていると、八十八(やそはち)は深夜になってやっと帰ってきた。すっかり疲れきったような様子である。


「何で勝手に入ってきたりするんだよ。いくら息子でもプライバシーってものがあるだろう」

 すぐに不機嫌そうな顔で文句を言う。


「それが久し振りに会った母親に対する言葉? お父さんに隠れてこっそり援助してやっているっていうのに」


 八十八は、父親に似てひょろりと長い体を窮屈そうに折り曲げながら、床に腰をおろした。相変わらずふてくされたように言う。

「俺のほうから頼んだわけじゃない。それに、おふくろが勝手に俺の口座に入金している金は、手を着けずにそのまま貯めている」


「また見栄、張っちゃって。この飽食の時代に飢え死になんかされたら、世間に顔向けできないんだからね」


「それ見ろ。本当は俺のことが心配なんじゃなくて、世間体なんだよ」


「そうだよ。その何が悪い? 田舎は、そういうことがすぐに知れ渡ってしまうんだから」


「俺が大学を中退したのも恥ずかしい。定職についていないのも恥ずかしい。そうだろう?」


「それは違うね」


 即座に否定されたものだから、向こうは言い返すこともできずに黙って母親の顔を見つめた。


「アンタはこれから長い人生が控えているんだよ。二十六にもなって、いまだにそんな調子でどうするの? ミュージシャンになるなんて、いつまでもそんな夢みたいなこと言ってないで、もう少し地に足を着けてものを考えないと」


「勝手に人の可能性を閉ざすなよ」


「もう……。さっきから勝手に、勝手に、勝手にとばかり。何よ、馬鹿の一つ覚えみたいに。じゃあどうなの? ミュージシャンになれたっていうの?」


「ああ、なれたさ」


「なれたって……。あんたの言うのは、もしかしてストリートミュージシャンっていうものじゃないの? それで食べていける?」


「それだけじゃない。ライブハウスにも出ている」


「聞いているのは、それで食べていけるかどうかってことなの。現に今日もアルバイトだったんでしょう?」


「うるさいなあ」

 とうとう八十八は声を荒げた。

「俺がどういう生活しようが、俺の勝手じゃないか。プロを目指して努力してるんだよ。それの何が悪い。人様に後ろ指差されるようなことはいっさいしてないんだから。それに、親には決して迷惑なんかかけないさ」


「じゃあ、プロになれそうな見込みでもあるの?」


「簡単に言わないでくれよ。いいか、おふくろ。プロのミュージシャンになるってのはね、東大に入るより難しいんだから」

 そう言って、してやったりというような顔をしている。


 しかし、それで言い負かされてしまうような早苗さんではなかった。


「だからこそよ。だからこそ、そんな夢みたいなことを考えていないで、もっと着実な道を選ぶべきなのよ。お父さんの言うことを聞いて、農業を継ぐべきだったの。いや、今からでも遅くない。家に帰って、お父さんに謝んなさい。そして農業を継ぐの。これからはお母さんも一緒にやることにしたから」


 すると彼は、何も言わずに壁に立てかけてあったギターを手に取った。そのまま抱きかかえて、適当に弦をつま弾いている。やがて、ぽつりと言った。


「農業で食っていけるのか?」


 この不意打ちには、さすがの早苗さんも言葉を失ってしまった。向こうは、またギターをボロンと鳴らす。


「何か、歌ってくれない?」

 と苦し紛れに頼んでみた。


「いやだ」


「どうして?」


「どうしてって、家族の前でなんか歌えるもんか。照れ臭くって」


 早苗さんはそれを聞いて、一応は家族だって思ってくれてるんだと、少し安心したのだった。


「おふくろ――」

 八十八はギターを元に戻すと、ふと口を開く。


「何?」


「人間にいつもつきまとって、一生離れないものが何か分かるか?」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ