参百拾八 息子の家出
話を聞き終えると、竜之さんが開口一番に言った。
「お前さあ、もしかしてあの男に惚れたんじゃないだろうな」
「うーん、なかなかいい男だったからねえ」
早苗さんがにやにやしながら答える。
「お前――」
「でも無理、無理、無理」
片手を左右に振る。
「意外とお茶目なところもあるんだけど、うーん何て言えばいいんだろう、常人には計り知れないと言うか――。あの人は自分で自分のことをただの妖怪だと言ってる。だから、魔女や怪物には敵わないんだって。でも私から見たら、あの人こそ怪物だよ」
「ふーん」
「実際に面と向かって会ってみたら、イメージとは微妙に違うの。言ってみれば、赤ちゃんの心を持った怪物だね。でも逆に、何をしでかすか分からないような怖さがある。とうてい私なんかにの相手になる人じゃないよ。やはり身の丈に合ったのがいい。そうそう、アンタぐらいの程度がね」
「お、おう」
竜之さんが胸を張る。褒められているんだろうか……?
「でも、良かったじゃない。ひとまずはアンタの願いが叶って」
「うん、そうだな。いやあ、本当に良かったよ。有難う、早苗」
「どういたしまして。あとは実務的なことだけだからね。まずは地主の京子さんと小作契約だか賃貸借契約だか何だか分からないけど、とにかくそれをやったうえで、農業委員会に申請すればいいのかな? アンタ、ちゃんとやれる?」
「何だって? 契約? 農業委員会? めんどくせえなあ。オイ、欽之助、お前がやってくれよ。彼女に会うためのいい口実ができたじゃないか」
「イヤです」
「イヤだと? 何でだ」
「何でだって、おれはあの女とはとっくの昔に別れたんですから」
あえてまた、あの女と言ってみた。
「だから向こうだって、おれに会うのはイヤなのに決まってますよ。それに、小作契約だとか農業委員会だとか、おれには何のことだか分からないですから」
「お前、東大出だろう?」
「東大を出たって、知らないものは知らないのです」
「だったら勉強しろ。一宿一飯の恩義ってものがあるだろう」
「もうそれは十分お返ししました」
あのおぞましい、何かのホラーにでも出てくるようなあのキッチンを、おれはたった一人でちゃんと片付けてあげたんだから。
「お前、ひょっとしてあの手抜きの、あんなまずい……あれをもって、恩返しをしたとでもいうのか。あんなものはなあ、たとえ100万円くれるって言われても、食いたかねえよ。そう言えば早苗、あいつはちゃんと食ってるのか?」
「いや、食ってないねえ」
早苗さんは即座に答える。
「そう言えば欽ちゃん、さっきの味噌汁といい、台所が奇麗に片付いていたことといい、あれはみんな欽ちゃんがやったのね? 偉い! ――アンタも少しは見習いなさい」
「お、おう。そうなんだ。こいつには、そういういい所があってね。実はお前が帰る前に、俺の嫁さんになってくれと頼んだところなんだ」
「あっ、それいいわね。そうしようよ。私も少しは羽を伸ばしたいし。ね、欽ちゃん、いいでしょう?」
「イヤです」
「お前って、冷酷非情な奴だな。――それで早苗、八十八のことなんだが」
「うん、そうだね。中野事務所を出ると、私はすぐにあいつのアパートに行った」
ここでおれは、懲りずにもう一度逃亡を試みることにした。
「あのお、僕はもうここらで本当においとまをさせていただきます」
「だめ、ダメ、駄目! だからさっきも言ったじゃない。近頃の若い子は何を考えているのかさっぱり分からないから、あんたにも一緒に聞いてほしいと。お願いだから、もう少し付き合ってくれる?」
「そうだよ、欽之助。俺からも頼む」
「はあ」
この虚しいやり取りを、おれは何度繰り返したことだろう。やむなくおれは腰を落ち着けたうえで、彼らの話にもう少し耳を傾けることにしたのであった。
八十八というのは彼らの息子で、ある日突然ミュージシャンになりたいと言い出し、大学も勝手に中退したばかりか、そのまま家を飛び出していったらしい。
早苗さんが下北沢の彼のアパートに行くと、本人は留守であった。スペアキーを持っていたので中に入ると、部屋は散らかし放題のうえに、シンクにも汚れた食器類が山のように積み重ねられてあったらしい。カップ麺の残骸もあちこちに散らばっていて、ろくなものを食べていないことは明らかであった。
そこまで話すと、早苗さんは夫をちょっと睨んで、アンタにそっくりだねと言った。
「うん」
竜之さんは息子のことが心配なのか、珍しくうなだれがちに聞いている。




