参百拾七 チムニーマン
「いえ、その……」
「ハハハ。あなたらしくもない。さっきも言ったはずなんだがなあ。あなたと話をしていて、自分が『てのどん』であることを思い出したってね。わずか半分のモチに餓えている自分が、農業をおろそかにしてはいけない。そのことに気付かされたんだ」
「ハ、ハイ。そうなんですよ」
つい身を乗り出して、元気良く言ってしまった。
そうなんですよって、いったい何のことを私は言っているんだろう。馬鹿、バカ、私の馬鹿。自分の頭をポカポカやりなくなった。
そんな彼女を見て中野は少し微笑んだが、すぐに表情を引き締めて言った。
「日本の食料自給率は、40パーセントにも満たないそうだね。国会議員としてそれぐらいの問題意識は持っている。なにしろあの国の奴らときたら、てめえで食いもしない米を勝手に作っておいて、それを自動車の見返りに輸入しろなんて押し付けてきたんだからね。でも、いったん小麦やとうもろこしなどが凶作にでもなってごらん。日本には決して寄越してはくれないよ。そのときに日本の水田がすっかり荒廃していて、米さえも自給できなくなっていたら大変なことになる。国民の命すら守ることができなくて、国会議員などと言えるものか。
あの娘と久しぶりにじっくりと話してみよう。あれは心が奇麗なばかりでなく、本当に賢くてね。何かいい知恵を出してくれるかもしれない。なあに大丈夫ですよ。悪いようにはしません。ひとつあの娘に任せてみようではありませんか」
早苗さんはすっかり感無量になって立ち上がった。
「有難うございます。ありがとうございます。近頃こんな嬉しいことはありません」
そう言いながら、何度も何度も頭を下げる。
そこへ、ドアをノックする音が聞こえて、矢部唯一が顔を覗かせた。
「先生、五階堂幹事長が心配して、大馬鹿寿司から自分で電話をかけてきましたよ」
「そうかい。それでとっつあん、何て答えたんだい?」
「あんたなんかよりもっと重要な人といま会談の最中だから、今日はキャンセルだと言ってやりました」
「さすがはとっつあん。有難う」
「あいよ」
そう言うと、また引っ込んだ。
早苗さんが立ったままそれを見送っていると、中野は彼女を見上げながら言った。
「まあそんなわけだから、あなたももう一度お座りなさい」
「でも、もういい加減おいとましなければ……」
「いいから、いいから」
そう言ってしきりに勧めるので、再びソファに腰を沈めてしまった。
「五階堂はね、私が将来、衆議院に鞍替えしたうえで、やがては慈民党の総裁選に打って出るのではと勘ぐっているんだ。それを周りに吹聴して潰そうとしている。自分が出たいものだからね。意見交換とは言いながら、本当は私の腹積もりを探りたいだけなんだろう。
ところが当の私には、そんな気はさらさらない。そんなものになってごらん、各派閥から散々手足を縛られて、自分のやりたいことは何一つできなくなる」
「はあ、そんなものなんでしょうか」
「そんなものだよ。もちろん自分の派閥からいつかは総裁候補を出したいとは思っているが、まだそこまで育っている人間がいなくてね。だから、他の有力な人間と手を組むしかない。必要とあらば、悪魔とだって手を組む。しかし、魂だけは売り渡さない。ここに半分このモチが引っかかったままである限りはね」
そう言って、胸を叩く。今日はこれで何度めだろう。
「あのー」
恐る恐る言ってみた。
「暮れになったら、うちで作ったお米で餅つきをするんです。ぜひいらして食べてはいただけませんか?」
「何だって?」
少し気色ばんでいる。
怯まずに笑顔で言った。
「おいしいですよ。あんこもたっぷり入っています」
すると向こうも頬を緩めた。
「考えてみよう」
すると、もう一度ノックの音。今度は少し大きい。
矢部がまた顔を覗かせる。
「あいつが、こっちへ向かっているそうです。電話は大馬鹿寿司からではなかったんだ。すぐに着きますよ。私が駐車場まで出迎えに参りますから」
そう言って、すぐに消えた。
「ちっ、小賢しい奴」
こっちは顔をしかめながら言った。
「だが、可愛いところもある。それに一つだけ、いいところがあるんだ。あいつは、盛り蕎麦も掛け蕎麦も食ってないからね」
早苗さんはさっと立ち上がると、言った。
「今日は本当に有難うございました。お嬢さんとはまた別途、話をさせていただいたうえで、こちらにも改めてお礼に参ります。今日はこれで――。長居をして申し訳ありませんでした」
「いいんだ、いいんだ。いつまでも引き留めたのは私なんだから。あなたが、余りにも私の母親に似ていたものだからね。こんな年寄りにもなって、いまだに私は、死んだ母親を求めているのかもしれないな」
中野は俯いたままそう言ったので、立っている早苗さんからはその表情はよく見えなかった。黙礼だけをして部屋を出た。
エレベーターホールで、幹事長の一向にちょうど出会った。その中には矢部の姿もあったが、もう彼女には目もくれなかった。
しかし、五階堂幹事長だけはわざわざ振り向いてまで、早苗さんを不思議そうに見つめた。年の頃は同じぐらいだったが、艶のいい黒々とした髪を七三に分けている。上背があまりない割には太っているせいか、スーツのボタンをきちんと留めたところから放射状にしわが寄っていた。汗を拭きふき、矢部の後を追いかけるようについていった。
モクモクマンと呼ぶのはやめよう、と早苗さんは思った。チムニースウィーパー、いやチムニーマンでいい。あの人の手は汚れているかもしれないが、心は赤ちゃんのように無垢なままだ。
彼がオムツをして、顔と言わず手と言わずススで真っ黒になりながら世の中の詰まったところを掃除している様を想像し、つい噴き出しそうになった。
Chim chiminey, chim chiminey, chim chim cher-ee、オッレーはエントーチュ掃除やさん、ばぶー……と口ずさみながら、早苗さんは中野事務所をあとにしたのだった。
 




