参百拾五 餅代と氷代
しかし、まさかここまでの成果が得られるとは思ってもみなかった。あとは実務的に進めればいいだけである。
「有難うございます。何とお礼を申し上げていいのか――」
早苗さんは深々と頭を下げた。
「礼ならいいさ。あくまでも娘の土地なんだから、私はそれについては、何の欲もなくてね」
それを聞いて意外な感じがした。この人は並大抵の人間ではない。底の知れない不気味さがあるとともに、一方では懐が深く暖かみもある。だが、欲ぐらいはあるのではないだろうか。それが政治の原動力になっているはずだ。
何故なら、この人は自分のことを「てのどん」だと言った。「てのどん」は、半分のモチを求めていつも餓えている。自分の個人的な欲望はもう満たすことはできないが、政治でそれを実現しようとしている。そのような意味のことをさっき言ったはずである。
しかし政治には金がかかる。それにこの人は、派閥の領袖だ。派閥を維持するためにもお金が要る。お金なら、のどから手が出るくらいほしいだろう。
だから土地の取得に動いたのも、将来的には土地転がしか何かが目的だったんだろうとぐらいしか、今まで思っていなかったのである。
「あれもそんなことにはとんと無関心なものだから、私がしようがなく動いたってわけなんだ」
「あれとおっしゃるのは、お嬢さんのことでしょうか」
「うん。あれの母親名義の土地があってね、ほかにもいろいろ相続権が複雑に絡んでいるものが、放置されたままだったんだ。それをこの機に整理して、すべてあいつの名義にしてやった。もちろんお金も多少はかかったがね。と言っても、その金というのも元々あれが相続したものなんだが」
中野十一が言うには、義父の菊松は彼を養子にしたうえで相当額の遺産を残してくれたらしい。その遺産と矢部唯一から借りた金を元手に国政に打って出ると、見事当選を果たしたのである。それには、死んだ義父を依然と慕っていた人たちの力もかなり働いたらしい。
その後国会議員として力をつけるとともに、県政会の実力者ともなったことで、例の県議会議員をその座から引きずり下ろすことができた。ついに復讐を成し遂げたのであった。
「しかし、そのあとが不可かった」
と中野は言った。
「その男の悪事が次々と露見してね。まあ、芋づる式に出るわ出るわ。こちらが知らなかったことまで、マスコミが暴き出していったんだ。そうなると世間は非情なものだ。それまで彼の恩恵を受けていた者まで、手のひらを返したように集中攻撃だよ。とうとう彼は首をつって死んでしまった」
それっきり中野はうつむいて、黙り込んだ。本当に自分の掌を表にしたり裏返したりしながら、じっと見つめている。
早苗さんはやむにやまれず、言葉を掛けた。
「さすがに先生も、お辛かったのでは?」
「うん」
向こうは素直に頷いた。
「私は若い頃に、名うてのワルと決闘をして瀕死の重傷を負わせたことがある。そんな私をまっとうな人間にしてくれたのが、義父の菊松なんだ。彼には言い尽くせぬほどの恩がある。それなのに、そんな私が中野家の財産の半分を復讐のために使い果たしたばかりか、本当の人殺しになってしまった」
それからの彼は悶々と悩み続けたらしい。俺はこんなことのために政治家になったのか? そう自問自答しながら、自らを責め続けた。そのうち、とうとう国会にも顔を出さなくなった。
そんなある日、彼のデスクの上に半分にちぎられたモチが、皿も何も敷かずに無造作に置かれてあったという。矢部唯一の仕業であった。それで目が覚めたという。
「あの話は、とっつあんにだけは告げていたんだ。彼とは私が政治家になった時以来、一心同体だったし、三番目の父親みたいな存在だからね」
「えっ、あの人にだけだったんですか?」
「そうさ。誰にでも彼にでも話してごらん。手垢がついて汚くなる。ましてやマスコミにでも書き立てられたりしたら、票欲しさにお涙ちょうだいで喧伝しているみたいになるからね」
「あ、でも……」
「あなたに話したのは、母のことを思い出したからだ。あなたは、こんな所にアポも何にもなしに単身で乗り込んできたばかりか、私の背中に向かって罵声を浴びせかけてきた。母にそっくりな感じがした。なにしろ女だてらに父のいる賭場に乗り込んで、胴元に向かって啖呵を切ったというんだからね」
そう言って、クスクス笑っている。
こっちは思わず、顔を真っ赤にしてうつむいた。
「殺伐な政治の世界で呼吸をしているとね、ついこんなことを誰かに親身になって聞いてほしくなることがあるんだ。私も心が弱っているのかもしれないな。だから、この話は誰にもしないでほしい」
「はい。絶対に誰にもしません。約束します」
早苗さんはまた目をキラキラさせながら、何度も力強く頷いたのだった。
「だから私は、派閥の連中の誰にもこの話はしたことがないんだ。ちなみに、私の派閥の正式名称は『小声会』なんだが、内輪では『半餅会』と言っている」
「ハンベイカイ……ですか?」
「そう。半分このモチと書いて、『半餅会』」
「はあ」
「派閥を維持するのは大変でね。夏には氷代、暮れには餅代を配らなければならない。ところが政治資金規正法の制約があって、なかなか神経を使わなければならない。だから、私は所属議員に言っている。半分しかあげられないから、あとの半分は自分の実力でなんとかしろとね。『半餅会』というのはそういう意味なんだ」
彼はそう言うと、片目をぱちりとつぶってみせた。




