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参百拾参 てのどん

 それで彼の話は終わったようであった。早苗さんは自然と伏し目がちになりながら、何か適当な言葉がないか思案したが見つからなかった。


「いやあ、申し訳ない」

 そんな彼女の様子を見て、向こうは急に声の調子を変えた。

「こんな昔語りを一人で延々と続けるとは、私もすっかり年寄りの部類だ。つまらない話を聞かせて悪かったね」


「つまらない話だなんて、そんな……。『声なき声を』という言葉に込められた先生のお気持ちが、これでよく分かりました。先生は今までずっと、妹さんにはモチを、お母様には家を、そしてお父様には感謝の気持ちを届けようとなさってきたんです。そしてこれからも……」

 それだけのことをやっと言った。


「私のその渇望感は永久に満たされることはない。しかし、政治ならそれが叶えられるだろうか」


「さあ、私には……。ごめんなさい。私にはよく分かりません」


「ありがとう。あなたは利発なうえに、正直な人だ。話を聞いてもらえて良かった」


 中野は満足そうにそう言うと、また自分の手をまじまじと見つめた。一方の手を、甲を上にしてまっすぐに指を伸ばし、もう片方の手で挟むようにしながら、親指でそれぞれの関節をなぞるようにしている。

 

 ひとしきりそうした後、ぽつりと言った。

「若い頃は節くれだっていたんだが、今ではこんな生っちょろい手になってしまった」


 決して生っちょろい手ではない。大きくて包容力のありそうな手である。こちらが見ているのに気づくと、その両手を頭の後ろに組んで、ソファに(もた)れ掛かった。


「日本は民主主義国家だから、たいていのことは多数決で決まる。しかし、こんなへなちょこの手では、その多数という妖怪には(かな)わなくてね」


「妖怪……ですか?」


「いや、怪物と言ったほうがいいのかな? 妖怪の私でさえ太刀打ちできない。私は妖怪は妖怪でも、ただの『てのどん』なんだ。何の力もない」

 こう言うと、またいたずらっぽく目配せをしてくる。


「えっ、てのどんって?」


 さっきから聞き返してばかりの自分が間抜けに見える。ひょっとしたら私は、この人に翻弄されているのだろうかと、早苗さんは疑った。


「あれ? 『てのどん』を知らない? そうか、あなたぐらいの世代になると、もうそんな妖怪は現れないようになってたんだ」

 向こうはわざと空とぼけたような顔をしている。


「はい。聞いたことないです」

 真面目に答える。


「そうか、そうなんだなあ」

 と今度は腕組みをして感慨深げにしている。

「日本が高度成長に転じたのは、戦争が終わって10年も経った昭和30年代、そしてお米が余るようになったのはそれからまた10年経った頃だったから、あなたたちにはもう無縁なわけだ。というか、もうその存在自体すっかり忘れ去られてしまったんだろうね」


「それで『てのどん』というのは、どんな妖怪なんでしょうか」


「そうだなあ。名前だけ聞くと、まるでどこかの国のミサイルみたいだが、こちらのほうがずっと先だからね。なにしろ平安時代の説話に残されているんだから」


 彼の話によると、それは裸同然のなりをした妖怪であり、口の中から一本の手がにょきっと出ているという。


 口減らしのために山に捨てられたあげくに死んでしまった子供や老人、もしくは飢え死にして路傍に放置されたままの死体が、妖怪と化したものらしい。


 夜な夜な現れ、腹が減ったー、何か食い(もん)はねえかーなどと叫びながら、口の中から伸びた手で家々の戸を叩いて歩くというのだ。子供が夜いつまでも起きていると、「てのどん」が出るぞと親が脅したものである。


「なーに、そんなものはうちには決して出てきやしないよ」

 十一の母親はそう言って、彼ら兄妹を安心させてくれたそうだ。




「ふーん、そんな妖怪がいたんですか」

 何となくそう聞くと、

「餓鬼が変じたものとも言われている。確かにうちに出るわけがない。私自身がそのガキだったんだからね」

 と言って、さも可笑(おか)しそうに笑った。


 こちらが笑うに笑えずにいると、急に真面目な顔をして言う。

「世の中には多数派という妖怪が闊歩している。いや、マジョリティというだけあって、妖怪ではなく魔女なんだ。魔女には妖怪は太刀打ちできない。なにしろ力は強いし、声はでかいし、金もある」


「……」


「逆を言えば、世の中には声を上げたくても上げられない人たちが、たくさんいてね。いわゆるサイレントマジョリティと言われる人たちだ。こちらは魔女なんかではない。弱き人、小さき人、貧しき人たちだ。そんな呼び方をすると傲慢に聞こえるかもしれないが、でもそんな人たちがいるのは冷徹な事実だ。不条理に(あらが)うこともなく、黙って汗して働く人たちだ。たいして不平も言わず、他人の尻拭いばかりしているような人たちだ。そういう人たちのほうが実は多いんだよ。

 しかし問題は、一部の力の強い人、声の大きい人、お金持ちの人たちの声のほうが、多数意見のように聞こえてしまう。そのように見えてしまう。本当はラウドマイノリティのくせに、マジョリティのようにふるまう。だから魔女なんだ。怪物なんだ」

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