参百拾 母の武勇伝
「奴め、私が幹事長にしてやったようなものなのに、近頃私には洟も引っ掛けないような態度を取り始めたんだ。まるで首相と官房長官、それに自分の3人で日本の政治を動かしているんだとばかりにね。
だから今、少し懲らしめてやろうとしている。私のブレーンの一人に切れ者の官僚がいてね、うまい具合に奴の選挙区の出身なんだ。それで噂を立ててやった。次の衆院選に、その人間を送り込もうとしているとね。そのうえ更に今日の会食をすっぽかしてやれば、奴め、顔を真っ青にしてここに飛び込んでくるかもしれない」
中野はそう言って、にやりと笑った。早苗さんはもちろん、そんな世界のことはよく分からない。
「本当に大丈夫なんでしょうか。私なんかのために、そんな偉い方との会食をすっぽかしてしまうなんて……」
「いいんですよ。それにこれは、あなたのためではない。私のためでもあるんだ。あんな男だが、まだ若いし、政治家としてのセンスもそれなりにある。私の持ち駒としてこれからも十分利用価値があるんでね。場合によっては総裁にしてやってもいいとさえ、私は思っている」
唖然として中野の顔を見返したが、向こうは真顔で続けた。
「政治というものは綺麗ごとだけじゃ済まされないから、身体検査なんて馬鹿げたことだと私は思っている。だから、朝暘新聞の川辺一谷なんかに言ってるんだ。三流週刊誌で政治家のつまらぬ下半身のことなんぞをあばいて、将来の芽まで潰してしまうようなことはやめろとね。あいつは決してうんとは言わないが。
たとえ金に汚かろうが、女癖が悪かろうが、犯罪者でさえなければいいんだよ。国民が政治家に求めているのは、何もしない、或いは何もできないいい人ではなくて、国民のために何かいいことをしてくれる悪い人なんだ。いい人でなくったっていい。大切なことは、その人間の心の核の部分に何を蔵しているかなんだよ」
中野はここまでまくし立てると、自分がつい熱くなったことを恥じるように、一つ咳をした。
「国民のためにいいことをしてくれる悪い人……ですか?」
早苗さんはそう繰り返して、思わずくすっと笑ってしまった。
「そう、国民のために何かいいことをしてくれる悪い人だ」
相手が笑ってくれたことに安心したように、中野も相好を崩しながら同じことを繰り返す。
しかしすぐに、
「もっとも、今では国民のために悪いことばかりをする悪い人ばかりだがね。その悪い政治家に悪い取り巻き、悪い官僚、悪い御用学者どもが群がって忖度したり、虎の威を借りたりするものだから、悪い政治、悪い行政ばかりがはびこっている」
と付け加え、一瞬黙り込む。
少し気まずい雰囲気が流れたので、それを打ち消すために聞いてみた。
「心の核の部分に何を蔵しているかというのは、さっきおっしゃったモチのことですか?」
「モチ?」
向こうはハッとしたように顔を上げると、
「そうだ、半分このモチ。それが私の原点として、いつもここにある」
と言って、また自分の胸を叩いた。
「もしよろしかったら、どういうことなのか教えていただけますか?」
立ち入ったようなことを聞くのは少し憚られたが、聞かないとかえって不可いような気もした。
「うん……。ところで、私がどうしてあなたに会う気になったか分かるだろうか。もちろん、あなたから手厳しい言葉を浴びたのもあるが、もう一つ理由がある」
「何でしょうか」
「あなたが、私の母に似ていたからだ。男勝りで一本気で……。と言っても、あなたのように美しい奥さん然とはしていなかった。イメージで言えば、ヨイトマケの母ちゃんだな」
こういって中野十一が話し始めたのは、自身の子供時代の家族の物語だった。
彼の父親は失業者のうえに、ろくでなしだった。たまに働くことがあっても、全て酒や博打で打ち込んでしまうような男だった。
十一には妹もいた。したがって、母親が日雇いや失対事業などで働きながら、家族四人を食わせていたのである。ところが父親は、その金さえこっそり持っていき、博打につぎ込んでしまうような始末だった。こんなことが続いては、家族全員が飢え死にしてしまう。
ある日再び金がなくなっていることに気付いた母親は、単身で賭場に乗り込み、例によって夫がすってんてんに負けていた金の半分を何とか取り返した。
胴元が匕首をもって凄むのも意に介さず、その男のことはどうでもいい。だが、私と子供たちまで飢え死にさせようってのかい、それならそれで構わない。今すぐそいつで私の心の臓を一突きで突いておしまい、と言って啖呵を切った。
これだから、女って奴あ。胴元はそう言いながら、金を返してくれた。だが、半分だけだぞ。でないと、他の奴らに示しがつかねえからな。それと、そのろくでなしも連れて帰ってくれ。そいつは今日限りで出入り禁止だ。そう言って、二人して叩き出されたという。
十一がまだ小学校に行く前のことである。家の近所で大人たちが餅つきをしていた。それまでモチなど食ったことがないから、餅つきも何のことか分からない。ただ不思議だったので見ていただけだ。
それを物欲しそうに見ているものと勘違いしたのか、大人たちの誰彼が言った。
「汚い子だねえ。どこの子だい?」
「ほら、あそこの……」
「ああ、道理で」
「お前の分なんかないよ。邪魔だから、どっかに行っておしまい」
子ども心に何となく傷つけられたような気持ちを味わいながら、その場を離れた。




