参百九 胸につかえしもの
「うーむ」
矢部はなおも納得がいかぬ様子。
「それにとっつあん」
中野は根気よく説得を続けた。
「そんなことをして御覧。あの川辺一谷がどう出るか。今度はケツの穴の小さい奴と、叩かれるに決まっている。一筋縄ではいかない人間だからね、あいつは。今頃は私がどう出るか、ほくそ笑んで待っているに決まっている。まんまと罠にはまってなるものか」
「なるほど。奴の思うつぼってわけだ。分かったよ、十一」
二人きりの時は、昔どおり中野を親し気に呼び捨てにする。
「今にどでかい仕事をして、奴に一泡吹かせてやろうじゃないか。それまでは、わしもこの老体に鞭打って頑張ることにしよう」
矢部も最後はやっと折れたようである。
「ああ、頼りにしてるよ。とっつあん」
こうして、この一件はそのまま放置されることになった。世間では相変わらず、神だの妖怪だの言って陰口を叩いているようである。妖怪に変わるあだ名はまだ付いていない。
そこまで話すと、中野十一はにこりと笑ってみせた。
「とまあ、こんなわけで私が政治家になったきっかけは、不純な動機にあったわけだが、しかし原点には、半分こにちぎられたモチがあるんだ」
「半分このモチですか……」
「そうそう、この胸の中にはいつもそれがある。つかえていると言ってもいい」
向こうはそう言って、自分の胸を叩いて見せた。
早苗さんがなおも腑に落ちない顔をしていると、ドアがノックされて女性事務員がお盆を持って入って来た。先ほどと同じように人の良さそうな笑顔を浮かべている。ドアの外にポスターが貼られていて、中野十一がいかにも市井のおばちゃん風の人たちと談笑していたが、まるでその中の一人が写真から飛び出してきたようである。
「ごめんなさい、すっかり遅くなっちゃって。一度コーヒーをお淹れしたんですけどね、とっつあんから止められたんですよ。おいおい、あの人はもう飲み過ぎているからやめときなさいってね」
そう言って、早苗さんの前にいい香りのするお茶を置く。
「えっ?」
彼女が目を丸くしていると、中野は、
「ハハハ」
と身体をのけぞらせて笑った。
「あなたも向かいのビルの喫茶店で、私を張っていたんでしょう? 2、3杯は飲んだんじゃないですか?」
「あ……、はい」
早苗さんはまた顔を赤くしてうなだれた。
「さすがはとっつあんだ。さっき言ったとおりでしょう? 彼はよく気が付くうえに、優しいんだ」
訳を聞いてみると、彼女よりもまだつわものがいて、その男は3日間もそうやって粘っていたせいで、最後はフラフラになっていたらしい。実は事務所の秘書たちも外部の人間との打ち合わせで、その店をよく利用しており、店主や従業員とも懇意であった。そういう関係で、もし不審な人間がいたら連絡をくれるように頼んでいたのである。
「聞いてみたら、あの『週刊風聞春秋』の記者だというじゃないか。いかにも駆け出し風の、若いおどおどした男でね。その日は私も暇だったし、気慰めに招き入れてやったんだ。
川辺一谷が事前に連絡をくれればいいものを、奴め、わざとそれをしないんだな。ただ取材してこいとだけ。方法も何も教えない。そうやって新人の記者を育てるんだろうね。こっちはすっかり可哀想になって、気軽に取材に応じてやったんだが、あの男、忖度も何もなしにそのまま記事にしやがった。それが例の記事だよ。矢部が神で、私が妖怪だと」
中野が面白そうに笑っているのを、女性事務員もお盆をもって嬉しそうに眺めていたが、はっと気付いたように、あっ、私ったら――と口走った。それから早苗さんに向かって、どうぞ、ごゆっくりとだけ言って、部屋を出ていった。
「あの人は弥生さんと言ってね、ああ見えてなかなか有能な事務員さんなんだ。みんな助けられている。ちなみにうちではお茶くみは当番の者か、たまたま手のすいている人間がやることになっている。とっつあんも例外ではないんだ」
「ええーっ? あの方もですか?」
思わず大きな声を出してしまった。小柄だが、目付きが鋭くて威圧感のあるあの老人が、お茶を出す姿はとても想像できるものではない。逆に客のほうがかしこまってしまうに違いない。
「それがまた、こっちの手でもあってね」
中野十一はそう言って、いたずらっぽくウィンクをしてみせた。
この人は、やはり人たらしだ。それを言ったらきっと怒られるだろうが、長年の政治稼業で自然に身に着けたものであろうかと、早苗さんはあらためて思った。
もっともいいオヤジがウィンクなどしたら気持ち悪いだけだが、この人の場合それがまた、さまになっている。持って生まれた資質、鋭い嗅覚のようなものもあるのかもしれない。
しかしそんなことよりも、彼女にはさっきの弥生さんの一言が気になっていた。決してゆっくりしどころではない。
「あの、今日はこのあと、幹事長と会食のお約束があるとお伺いしました。すっかり長居をして申し訳ございません。私のほうは個人的なお願いですし、今日片付けてしまわなければならないほどの話ではありません。いつかまたお会いしていただければ……」
「いいんですよ」
向こうは澄ましている。




