参百八 ゴッドファーザーのいわれ
彼の出ていった方向を見やりながら、中野は言った。
「顔は怖いが、本当は情に厚い優しいおじいちゃんだよ。私は尊敬している。私が政治家に――、いや政治屋じゃないですよ。政治家です。いやあ、あなたのあれは手厳しかった」
早苗さんはますます身を縮めるようにしながら、「ごめんなさい」とだけ言って謝った。この場合、申し訳ございませんとでも言うべきだが、その方がいいような気がした。
「ふーん……」
向こうはゆったりとソファに身体を預け、穏やかな微笑を湛えながら、こちらの様子を観察しているようだった。やはり恐ろしい人だと早苗さんは思った。
「あなたは私より一回りも二回りも若そうだから、ざっくばらんに話しをさせてもらおうかな。こういう稼業をやっていると、あっ、そんな言い方をするといかにも自分が政治屋であることを認めたみたいだが――」
中野はそう言うと、いたずらっぽく笑いながらこちらを見る。早苗さんは慌てて、ぶんぶん首を振った。
すると向こうは、急に真顔になって言った。
「あなたの話は、あとでじっくりと聞かせていただくことにしましょう。毎日たくさんの陳情を受けることで、人の話は聞きなれていますから。声なき声を国会に。それが私の政治信条でしてね、キャッチフレーズとは違う」
やはり、政治屋と言われたことにまだこだわっているのだろうか。そう思いながら、早苗さんは黙って耳を傾けた。
「でもね、陳情とは名ばかりで、多くは自分のためだ。自分が名を上げ、のし上がるためのね。声なき声ではなく、声の大きい人の声なんだ。欺瞞や虚飾ばかりだ。そんな世界に生きていると、たまにこうして自分の話を親身に聞いてくれる人がほしくなってね。だからこんな話し方で許してほしいんだ。それとも尊大に聞こえるだろうか」
「あっ、いえいえ。こうして会っていただけただけでも感謝しておりますのに、そのうえそのようなお気遣いまでしていただいて有難うございます」
彼女はそう言いながらも、この人は今までもこうして人の心を鷲掴みにしてきたのだろうと思った。
中野は満足そうに頷くと、再び先ほどの話を再開した。
「矢部のとっつあんのお蔭で私は政治家になれたし、今こうしていられるのも彼のお蔭なんだ。ほかにも厄介ごとを抱えてもらっていることがあってね、だから彼には言葉にならないほどの恩義を感じているし、尊敬もしている」
中野十一の話によると、矢部唯一は、中野の義父が経営していた菊松建設の重役であった。
ところが会社は倒産してしまい、義父の中野菊松は失意のうちに亡くなってしまう。十一は、会社を整理して残った金のうちから相当な金額を矢部に手渡そうとした。義父の遺言でもあったからである。
すると矢部をそれを断った。かたき討ちをするための元手にしてほしいというのである。
中野菊松は地元の有力者であると同時に人望もあったので、県議会議員の候補者として推し挙げられ、当選を果たす。ところが、身に覚えもない選挙違反で逮捕された末に有罪となり、当選無効となってしまった。
代わりに繰り上げ当選となったのが、菊松建設と敵対する会社の社長であった。全てはその男の謀略によるものであったらしい。
中野菊松と矢部唯一は、いわゆる特攻崩れで、戦後のバラック建ての間を暴れ回ったらしい。やがて兄弟分となり、二人で苦労しながら建設会社を立ち上げたのであった。
その会社を潰されたうえに兄貴分まで失ってしまった矢部の怨みは、計り知れないものがあった。
こうして、中野十一の政治家としての歩みは、まずその男を県議会議員の座から引きずり下ろすことから始まったのである。その大きな支えとなったのが、矢部唯一であった。
こうした事情を知っている者が中にはあって、矢部のことを秘かにゴッドファーザーと呼ぶ者がいた。また、その苗字から取ったのであろうが、ヤーベだの、或いは神だの呼ぶ者までいたのである。
ところが、例の『週刊風聞春秋』が議員と秘書の関係について特集記事を組み、彼らのことについても触れた。記事では中野十一を『妖怪』、矢部唯一を『神』という渾名付きで紹介していた。
神と妖怪とでは格が違う。これでは国会議員と秘書の立場が逆転している。矢部は当然のように激高し、朝陽新聞社に尻を持ち込もうとした。
ところが中野はそれを制止した。
「とっつあんが神で、私は妖怪か。ふふふ。面白いじゃないか。陰でそう呼ばれているのは事実だし、勝手にさせておこうよ」
「しかし、それではあまり……」
矢部はなおも言い張ったが、中野は平然としている。
「ほかに私は、黒子だとも、寝業師だとも、或いは風見鶏だとも呼ばれている。どれも陳腐な呼び名だ。だが妖怪というあだ名だけは、私は気に入っているんだ。これからその妖怪がどのように化けていくか、一つ世間にじっくりと拝ませてやろうじゃないか」




