参百五 Somewhere over the Rainbow
おれは昔、虹の足元まで見たことがある。そいつは畑の土の上から立ち昇り、道路をまたいで山のほうまで伸びていた。
あの時おれは、本当に虹が潜れると思ったものだ。もしくぐれていたら、どんな世界が広がっていたのだろう。
だが、そんなことは考えてもせんかたないことだ。コンビニで超デカ盛りラーメンでも買って、すたこらさっさと帰ることにしよう。そして腹いっぱい食べて、脳みそはからっぽにして朝までぐっすり眠るんだ。
おれはそう力強く決心して、再び青山通りを歩き始めた。
「おい」
「……」
「おーいったら、聞こえないのか?」
「えっ?」
「何ぼんやりしてんだよ。コーヒーできたぞ」
気づいたら、タチュユキさんがそこにつっ立っていた。本当のおいさんだ。虹のかなたはどこかと思ったら、このおいさんちの居間だった。おれはやっと現在に戻れたのだった。
「はい、お待ちどお」
早苗さんそう言って、移動式のテーブルでコーヒーと一緒に運んでくれたものは、ふわふわの厚焼き玉子だった。レタスとウィンナーが添えられている。ウィンナーにはマスタードが掛けられていた。
「これが意外とコーヒーに合うんだ」
厚焼き玉子を早速箸でつつきながらタチュユキさんが言う。
ぷりんぷりんしているうえに、甘さと辛さのバランスが絶妙である。簡単そうであるが、奥が深い。おれも専用のタレを使ったり、マヨネーズを混ぜたりして何度か挑戦してみたが、まだまだ満足できるものはできたことがない。
「これがホントのウィンナーコーヒーってな」
タチュユキさんが箸で挟んだウィンナーを目の前に掲げながら言う。
「で、さっきの話の続きだけど」
早苗さんは笑いもせずに言う。もういい加減、同じ駄洒落を聞き飽きたのだろう。
「今回私が家出をしたのには、二つの目的があったから。一つは、息子の八十八の様子を見に行くこと。それからもう一つは、夫の失われた土地を取り戻しに行くこと」
竜之さんがすかさず口を挟んだ。
「何故最初からそれを言ってくれなかったんだ。この数百年間、どれだけこの小さな胸を痛めたことか」
「アンタには少し腹を立てていたからね」
早苗さんが真面目な顔でそう返すと、向こうはしゅんとなった。
「もちろん、最初から取り戻そうなんて思ってやしない。でもとりあえず農地のままにしてもらって耕作権だけでも確保しておかないと、企業なんかに売られてしまったらもう間に合わないからね」
「うん」
「それであの人に直談判することにしたんだ。あの人が動いていたことは、この辺では有名だったもの」
「うん」
「中野十一の事務所は、六本木にあるの。ビルの最上階でね」
「お前、よくそんなことを知ってたな」
「馬鹿ね、そんなの簡単にネットで分かるじゃない。むしろ住所なんかも堂々と掲げて宣伝してるわよ。『声なき声を国会に。一を聞いて十を知る男、中野十一』なんてね」
「あ、ああ」
「だから私は彼に会うために、道路を挟んだ真向かいのビルで待つことにしたんだ。そこの1階にある喫茶店で、彼を張っていたの。だっていきなり行ったって、いるかどうか分かんないじゃない」
「ちょっと待てよ、おい。そんなとこで見張っていたって、そう都合よく現れるとは限らないぜ。だって、普通そんな所っていうのは地下駐車場があって、そっから直接エレベーターで自分の事務所かなんかに行くんじゃないのか?」
「エライ! よくそこに気付いたね」
「へッヘーンだ」
褒められて胸を張っている。タチュユキさんも本当に人がいいや。




