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弐百九拾九 向後一切釜椀(きょうこういっさいかまわん)

「あれっ、そうだっけ? そ……、そう言えばそうだったね」

 これはまずい。今まで彼女の何を見ていたんだろう。何とか弁解をしなければ――。


 おれは腕力には自信がないので、取っ組み合いの喧嘩などは決してやらない。そんなのは愚の骨頂だと思っている。


 しかし口だけは達者だ。悪口や皮肉ならいくらでも口をついて出てくる。だから言われたらきっと言い返す。口喧嘩なら買ってでもやる主義だ。


 だが言い訳はしないと決めている。そんなのは男らしくない。しかしおれがそう言うと、京子から言い返されたものだ。


 言い訳をしないのが不可(いけな)いと。男らしくないところを女に見せるのが、本当の男らしさだよと。何だか変な理屈だ。


 だが、今日ぐらいはちゃんと言い訳をしないと――。

 おれは急いで頭を巡らせた。


「ほ、ほら、君と初めてここに来た時にそうだったから、きっとその印象が強かったんだ。君はミルクをこう、ぽたっと垂らしてさ、その白い筋がいろいろな模様に変化していくのを見るのが好きだなんて、確かそんなことを言っていたじゃないか」


 もう一つ、その日のおれには意識していたことがある。それは彼女のことを、君と呼ぶこと。しかし、彼女はおれよりも三つ年上だった。その人を君呼ばわりするとは。


 君と言うのは、上司が部下を呼びつけて叱りつける時の呼び方だ。陰険で冷たい感じがする。馬鹿にされたような感じもする。では、あなたなら――。あなただっておんなじだ。お前のほうがよほど温かい。


 だが本人がずっと望んでいたことだ。最後ぐらいは聞いてやらねば。待てよ。最後だって? 彼女も確かさっき、その言葉を使わなかったっけ……?



「私があの時、何をしていたか分かる?」

 君と呼ばれていることにもまるで気付かないかのように、彼女は聞いてきた。


「えっ?」


「だから、コーヒーにミルクを垂らしてじっと見つめていた時よ」


「いや、だってそうするのがただ単に好きだったからだろう? ぼんやりと眺めているのが……」


「それはそうだけど、もう一つ目的があったの」


「……」


「馬鹿らしいことだけど、占いをしていたの。あなたとうまくやれるかって」


 これには少し驚いてしまった。思わず、それで結果はどうだったと聞きたくなったが、あやうく思いとどまった。


「でも、そんなことはもうやめたの。愚かなことだわ。そんなのこじつけでどうにでもなることだから。ほら、あなたの好きな漱石がどこかで書いていたじゃない。自分で(こしら)えた人間を自分で好きになるとか何とか。あれと似ている」


 おれは先程からの剣呑(けんのん)な感じがますます強くなってきたので、黙っていた。これは迂闊にものを言わないほうがいいぞと思った。


 すると不意に、「欽之助――」と声を掛けてきた。「あなた大学に戻る気はない? ひどく教授に気に入られていたじゃない。今ならまだ戻れると思うんだけど」


「無理」

 おれは即座に否定した。

「教授の本当のお気に入りになるには、彼の説を忠実に継承していく者でなければ駄目なんだ。いや、それだけでは不足でね。さらに発展させて学会で認めさせるような成果を出さなければ。そこまでやれれば、彼の手元に置いてもらえる。君にも分かるだろう。そもそも人の忠実なしもべのようになるっていうのが、僕には無理な話さ」


 最初からおれの答えは予想していたのだろう。彼女はそれ以上何も言わず、腕組みをしておれから目を()らせた。


 二人の間を微妙な空気が支配していた。それに耐えきれなくなって、カップを口に近づけた時だった。


「ねえ、欽之助――」

 と、また呼ばれた。前髪の隙間から真っすぐにこちらを見つめている。


「私たち、付き合って何年になる?」


 これはますます危ない。こんな風に彼女がおれを質問攻めにするときは、決して良くないことが起きる。


「た、確か6年かな?」


「6年もなるのよ。なのに私たちって何も変わらない。宙ぶらりんのまま。これからもきっとそう」


 確かにそうだ。二人ともこのままでは不可い。例の話を切り出すのだ。そう思って口を開きかけた時だった。


 京子が一心にこちらを見つめながら言った。

「欽之助――。この2ヶ月間ずっと考え抜いたことなんだけど、私たち、一度振出しに戻ろうよ」

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