弐百九拾七 振袖火事
「おい」
「……」
「おいってば」
「えっ?」
はっと気づいたら、京子が呆れたようにこちらを見ている。
「もう、これなんだから」
おれがコートのポケットに両手を入れたまま突っ立っていると、真横に並んで身体をくっつけてきた。背後から手を回して、勝手におれの右ポケットに手を突っ込んでくる。
「あっ、こら」
「いいの、いいの」
構わずポケットの中のおれの手を握る。
「や、やめ……」
あわててそう言いかけながら、つい笑ってしまう。今日で別れを告げようというのに、何たる不覚――。
「やめろよ、人が見てるって。ここはお互いに知り合いが多いんだから」
きょろきょろ周りを見回す。でも鼻の下はすっかりゆるんでいる。
嬉しくて笑うのか、照れ笑いなのか、自分でも分からない。そんなおれを京子は面白がる。彼女にはそんないたずらっぽい面もあったのだった。
「いいの、いいの。さあ、行こう」
またそう言うと、おれのポケットに手を突っ込んだまま勝手に歩き出した。いきおい、足をもつれさせながらおれも前に出る。
おれはうろたえて聞く。
「い、行こうって、どこへ?」
京子はおれの肩に頭を凭せかけると、
「コーヒーが飲みたい」
と、一言だけ言った。あとは何も言わない。
彼女の髪がおれの頬に触れる。香水か何か分からないが、しつこくない甘い香りが、おれの脳髄をしびれさせる。
人前でいちゃいちゃしたりするのは嫌だったので、いつもだったらすぐに離れるのだが、今日はそうしなかった。それどころか、俺の右ポケットの中にある彼女の手を握り返したいぐらいだった。強く、強く――。
忘れもしない。あれは例によって、京子の神社巡りにつきあった日のことだった。
「烏森神社というのはね亅
おれは電車の中でレクチャーを受けていた。
「あの明暦の大火で焼け残ったということで知られているの。新橋駅から歩いてすぐの所でね、癌封じなんかをしてくれるというので、結構お参りする人も多いらしいの亅
「池之端仲町のおれのアパートだって、関東大震災でも、東京大空襲でもやられなかった亅
そううそぶくと、
「ふーん。一度行ってみたいな」
と言う。
「だめだめ。そんなんだから古くて、汚くて、ボロボロなんだ。とても女なんか連れてこられるもんか」
おれはあわてて言った。
日比谷口を出たら広場があって、SLが設置されていた。
「汽笛一声新橋の………亅
と、思わず口ずさんだら、
「お前は何時代の人間だ」
と、おでこをつつかれてしまった。
途中の狭い路地で、京子が恋人繋ぎをしてきた。おれはあわてて、その手を振りほどいた。
「何よ」
「いや……」
おれは例によってきょろきょろ辺りを見回す。
「何、恥ずかしがってんのよ、馬鹿ね。たいして人も居ないのに」
またおれの手を握ってくる。
「ま、待って――」
おれはますますうろたえながら、その手を放す。彼女はくすくすと笑う。
何度振りほどいても、また繋いでくる。おれはとうとう降参して、その場を走って逃げ出してしまった。彼女はそんなおれを見ながら、声を立てて笑ったのだった。近くを歩いていた人たちも、そんな二人の様子を見て笑っている。
その時の彼女の気持ちは、本当のところどうだったのだろう……。
おれは京子が好きだ。愛している。しかし本人に対して、こんな陳腐で浅薄な言葉を吐いたことはない。
言葉ではなく、態度だ。実際にどう接するかだ。そういったことの日常の積み重ねだ。
おれはかねがねそう思ってきた。だが、現実のおれはどうだったのか?
お前と呼び捨てにする。横柄な態度を取る。何か言われると必ず言い返す。手も握らない。
死んで産まれた子は、男の子だったという。ひょっとしたらおれは彼女に対して、息子が母親に反抗するように、或いは弟が姉に甘えるように接してきたのではないだろうか。
彼女の手を振りほどいてその場を走り去るなんて、おれのほうがよっぽど悪ふざけが過ぎる。なんて愚かだったんだろう。




