弐百九拾六 愚者ぐしゃの過去
問題は、いつそれを彼女に切り出すかである。優柔不断なおれは、なかなかそれを決行できないでいた。ある新人賞の応募締切が近いからと、しばらく彼女には会わなかった。ちょうど向こうでも、論文の作成に追われているとのことであった。
ようやく意を決して彼女に連絡したのは、あの糸瓜忌から2か月ぐらい経った頃のことである。
京子の在籍している東洋文化研究所は本郷にあったが、その日はちょうど駒場のほうに用事があるというので、そこで夕方の4時に待ち合わせることにした。
すっかり黄葉した銀杏並木の下で待っていると、黒い細身のパンツにカーキグリーンのコートを軽く羽織った姿で彼女は現れた。
「久し振り。でも珍しいじゃない。欽之助のほうから連絡してくるなんて」
論文が片付いたせいだろう。晴れ晴れとした笑顔を浮かべている。
「ああ、うん……」
おれはいったん曖昧な返事をすると、
「君が初めて声を掛けてくれたのは、ここだったね」
と言った。
京子は急に笑顔を崩して、
「どうしたの? 君だなんて、気持ちの悪い」
と不審そうな顔をする。
だが、それはほんの一瞬のことだった。
「ぷっ、あなたが君? げえーっ、気持ち悪ーい」
すぐにまた笑顔に戻って、同じようなことを繰り返す。
「ああ、いや……」
おれはまた曖昧に呟きながら、ああおれは今まで、3つ年上のこの人のことを、お前だなんて呼んできたんだなとつくづく思った。
「何よ、どうしたの?」
細面の白い顔に、しっとりと落ち着いたピンクブラウンの髪。前髪の隙間から、じっと訝しそうにこちらを見る表情は、前と変わらない。
だがあらためてこうして見ると、やはりおれよりは大人の女性に見える。今まで年齢のことは全く口に出すことはなかったし、おれのほうから尋ねることはなかった。彼女はそんなおれのことを弟か息子でも見るように接してきたのだろうか。
「お前って呼ばないで」
彼女からはよくそう言われたものだ。
おれは例によって言い返す。
「何故?」
「何故って、失礼じゃない。失礼を通り越してパワハラだよ。オイとかお前とか、せめて人前では言わないでよ。恥ずかしいから」
「おれは九州の田舎育ちだから、人を君なんて呼ぶのはキザに聞こえてね。ましてや、あなたなんて、自分で鳥肌が立つ」
「ここは東京だから、東京標準に合わせなさい。と言うか、今やオールジャパンよ。日本統一規格なんだから」
「いつ、そんな規格ができたんだ」
「いつって、自然によ。自然にそうなったの。大昔に吸った昭和の空気を、いつまで吐いてんのよ。馬鹿」
「このおれが猫撫で声で、ねえ、君なんて言えばいいのか? おお、気持ち悪い」
「慣れよ。何度も心がけてそう言うの。そうすれば慣れるから。そのうち自然にそう言えるように、また自分でも自然に感じられるようになるから」
「お前ってもとは『御前』だよ。最高の尊称じゃないか。『君』だって『貴様』だってそうだ。段々尊称のレベルが下に下がっていくんだ。元々高貴な人に対する尊称が、単なる目上の人に対する言い方になって、そのうち対等になって、最後は……、あっ――」
「ほら、墓穴を掘った。理屈はどうでもいいんだよ。相手が厭だって言うんだから、やめればいいだけの話じゃないの」
おれはそれでも負けてはいなかった。
「じゃあ、『君』ならいいのか? それとも『あなた』なら。『あなた』とか『君』とか呼びながら、立派にモラハラをすることだってできるさ。逆に、温かい思いやりのこもった言い方で、『お前』って呼ぶこともできるんじゃないのか? だから、呼称なんてどうだっていいんだ。大切なのは気持ちだよ。或いはその時の流れ、もしくはシチュエーションで、そう呼ばれるほうの印象もまるで違ってくるんじゃないのかなあ」
「じゃあ、あなたは私のことをそんな優しい気持ちで『お前』って呼んでるの?」
「むむ……」
おれはいったん口ごもる。しかし直ぐにまた言い返す。
「関係性の問題だよ。お互いに対等だと思っていればそれでいいじゃないか。或いは、実際に対等な関係であればね。現におれは、お前のことを目下扱いした積りはないし、対等な関係だと思っているんだから」
「イヤだからイヤなの。これ以上、同じことを言わせないで」
「じゃあ分かった。今から君のことを『ユー』って呼ぼう。これなら関係性もシチュエーションもクソもない」
「てめえ、ここまで言っても分からないのか。この唐変木!]
京子は怒りに燃えた目でおれを睨みつける。
「私、もう帰る」
そう言って立ち上がる。
とまあ、こんなやりとりを何度してきただろう。しなくてもいい喧嘩だ。これもすべておれが悪いのだ。
この人は今まで人知れず重いものを抱え続け、それにじっと耐えてきたんだ。その尊敬すべき人に対して、おれは何という接し方をしてきたのだろう。




